■『大日本野史』の話がベースになった可能性
『大日本野史』には北条氏綱の時代、河越城を奪い返そうとする扇谷と山内の両上杉氏に対し、後詰めの北条勢が夜襲を仕掛け、約一時間の激戦の末に八〇〇〇余人を討ち取ったとある。
しかも、朝定はこのときに討ち死にせず、だとすれば、両上杉の大軍が後年、改めて古河公方を抱き込んで河越城を包囲し、北条勢が前述の夜襲で、再び勝利した――ことになる。
とはいえ、夜襲がそう何度も成功するとも思えない。つまり、河越夜戦は『大日本野史』の話がベースになっている可能性もあるのではないか。
むろん、天文一五年四月に河越城を巡る合戦がなかったといったら、それはうがち過ぎだろう。
実際、信頼性が高い史料の『高白斎記』(武田信玄の側近の日記)にも、この日、連合軍と北条勢が戦った事実が記され、後者の勝利に終わったとある。扇谷上杉朝定が陣中で没したのも事実とみられる。
たとえば、北条軍が合戦の中心人物だった朝定に狙いを定めてピンポイント攻撃を仕掛け、そもそも連合軍側の士気が低く、自然と瓦解した可能性もあるのではないか。
いずれにせよ、その敗れ方が余りにも無様だったため、この合戦を機に「御所様」と崇められた古河公方の権威が地に落ち、当時の関東の勢力図が大きく塗り変わったことは確かだろう。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。