大軍を率いて200キロを10日で踏破!戦国の奇跡・羽柴秀吉の「中国大返し」の舞台裏の画像
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 天正一〇年(1582)六月三日夜、備中高松城(岡山市)に出陣中だった羽柴秀吉の元に主君の悲報が届いた。

 前日未明、織田信長が重臣である明智光秀の急襲に遭い、京都・本能寺で自害したのだ。

 秀吉はただちに毛利氏と和睦を取りまとめ、仇を討つために京都を目指して大移動を開始。いわゆる「中国大返し」である。

 その行程は実に二〇〇キロ以上。秀吉は大軍を率い、これをわずか約一〇日で踏破したとされ、同月一三日には京都の山崎(乙訓郡大山崎町)に布陣し、明智光秀を討った。“奇跡の大強行軍”といわれる理由である。

 だが、秀吉はいつ高松を出発し、居城の姫路城に入ったのか。今もはっきりせず、二つの説がある。

●四日午後出発-六日夜到着

●六日午前出発-七日夜到着

 大返しは言うまでもなくスピード勝負。出発日の二日の差は非常に大きいといえ、やはり後者が有力なのだろうか――。

 秀吉は当時、中国地方に覇を唱える毛利輝元方の備中高松城を水攻めし、信長の援軍が到着するのを待っていた。

 だが、輝元が自ら軍勢を率いて城を後詰め。猿掛(岡山県倉敷市)に布陣していた。

 秀吉はそのため、毛利本軍が信長の死を知る前に講和をまとめなければならず、備中、備後、美作、伯耆、出雲五か国の割譲要求を三か国に譲歩した。

 とはいえ、高松城主である清水宗治の切腹は譲れない。そうしてしまえば毛利に織田陣営の非常事態を悟られかねなかったからだ。

 それでも宗治の切腹が認められることはなく、秀吉は直接、本人に働き掛け、彼は城兵の助命と引き換えに切腹と開城を承諾。宗治は秀吉の水攻めに喘ぐ高松城から小舟に乗り、四日午前に羽柴勢が見守る中、腹を割いた。

 以上、双方による交渉の舞台裏はほぼこの通りとみられ、秀吉は前者に説に基づけば、宗治の切腹を見届けた直後に大返しを始めたことになる。

 だが、毛利の本軍は前述のように当時、猿掛で滞陣中。そうした状況で大返しを始めれば、敵に背後を突かれる危険があっただろう。

 秀吉は側近を城に残したといわれるものの、毛利本軍の動きを十分に注視しなければならなかったはず。大返しの起点をこの二日後とする後者の説の根拠がここにある。

 むろん、毛利方が本能寺の変に関する正確な情報を知ったのは六日以降で、秀吉が四日午後に撤退してもなんら問題はなかったかもしれない。その一方で、輝元に仕えた家臣の玉木吉保が残した記録『身の自鏡』によれば、秀吉が毛利の外交僧だった安国寺恵瓊を通じて講和交渉を行った際、次の趣旨の話が出たという。

 恵瓊はこのとき、秀吉から密かに呼ばれて「中国を織田のものにする策略の証拠を見せる」と連判状を投げつけられ、その内容に絶句。毛利の重臣五人を除く全員の名がそこに記されていたからだ。

 むろん、秀吉による大言だった可能性もある。実際、この史料の成立は江戸時代以降。

 ただ、複数の別の史料によれば、講話はそもそも毛利側が持ち出したもの。

 もしそうなら、秀吉の調略が一定程度は成功し、毛利側は内部に波風が立ち、こうした中で信長が加勢するという情報に動揺し、その前に講和をまとめようとしたのかもしれない。

 だとすると、秀吉は講和をまとめて宗治の切腹さえ見届ければ、毛利の動きをそれほど警戒する必要もなかったはず。

 つまり、大返しが四日午後に始まった可能性が再浮上する。

 いずれにせよ、秀吉は高松城を発って山陽道を東に進み、織田方に転じていた宇喜多氏の居城である沼城(岡山市)を目指した。

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