■毛利の動きを警戒して当初はスローペース!?
『梅林寺文書』といわれる秀吉の書簡によると、その途中、高松から約八キロの野殿(同)まで退却し、摂津茨木城主だった中川清秀から書状を受け取った。
摂津衆の中川は信長の死に気づいていたとみられ、その後の立ち回りに頭を悩ませ、畿内の最も近くで大軍を抱える秀吉の動向を探りたかったのだろう。
秀吉は中川らの動揺を鎮めるため、「信長父子は無事に切り抜け、膳所(滋賀県大津市)に逃れた」とデマを流した一方、「その日のうちに沼を目指す」と伝えた。
この秀吉の返書の日付が五日。野殿で中川の書状を受け取ったのはそれ以前となり、四日時点で大返しが始まったとする説の根拠の一つにもなっている。
秀吉軍はつまり、六月四日午後に備中高松を発ち、八キロ先の野殿で野営。秀吉は翌朝、中川の書状に目を通して返書をしたため、すぐに移動を再開したのだろう。
沼城は野殿から東に約一五キロ。返書にある通り、五日中に入ることは十分に可能だ。
もし早朝に野殿を発てば、遅くても昼下がりに沼城に到着したはずで、兵にも休息を与えることができたはず。
とはいえ、行軍はここまで、ややスローペース。背後で大軍を擁する毛利の動きに対する警戒感があったのだろう。
一方、秀吉の近臣が細川忠興(コラム参照)の重臣である松井康之に宛てた書状(添え状)によると、「六日中に姫路に戻って九日に出陣した」とある。
姫路城は沼城から約七〇キロ。五日夜に沼城を発ったとしても、わずか丸一日で姫路城に入ることは至難の業だ。
しかも、その途中に難所の船坂峠があるばかりか、当日は悪天候だったともいわれる。
中国大返しのスタート日はいまだに謎に包まれたままだが、沼から姫路間の七〇キロの強行軍が、のちの秀吉の天下取りを呼び込んだことは間違いない。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。