平氏「壇ノ浦で滅亡」を決定づけた屋島の合戦「源義経の奇襲攻撃!」NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では菅田将暉が義経を演じるの画像
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 元暦二年(1185)三月、それまで栄華を極めた平氏は長門国赤間関壇ノ浦(山口県下関市)で源氏との最終決戦に敗れて滅亡した。「平家にあらずんば人にあらず」との言葉まで生み出した名門一族はいったい、なぜ凋落したのか。

 その発端は壇ノ浦の合戦が起きるわずか一ヶ月前。本拠地だった屋島(香川県高松市)を攻め落とされたことにある。

 平氏が源平合戦の一つである一ノ谷の合戦に敗れて摂津国福原(兵庫県神戸市)を追われ、屋島に逃れて一年。形勢を立て直す間もなく、屋島は源義経の奇襲により、たった三日で攻略されたという。はたして本当か――。

『平家物語』などによれば、義経は同年二月一六日夜、船五艘に一五〇騎の兵を分乗させ、摂津国渡辺(大阪市)から荒れ狂う海に出た。

 目指す屋島は当時、現在のような陸続きではなく、平氏はここに安徳天皇の内裏を設け、瀬戸内方面の水軍を重点警戒。

 一方、義経はその裏を掻き、対岸から浅瀬を騎馬で渡る作戦を立て、翌一七日早朝に阿波国(徳島県)に上陸し、現地の武士である近藤親家から平氏軍の情報を得ることに成功した。

 近藤の父は後白河法皇の近臣だった西光とされ、彼が鹿ケ谷事件に加担したことから平清盛に処刑され、その恨みもあって平氏を裏切ったのだろう。

 近藤は義経に次のような軍事機密を漏らした。

●平氏軍は伊予攻略のため、三〇〇〇騎が出払い、本営は一〇〇〇余騎と手薄。

●平氏軍は海岸線防備に五〇騎から一〇〇騎単位で分散して配置。隙がある――。

 義経はまず、敵方の城を一つ攻め落とし、阿波と讃岐(香川県)の国境にある大坂峠を越え、一八日朝、屋島を望む場所に到達。「干潮になれば、陸地から馬の腹まで浸からずに屋島に渡ることができる」という情報を近藤から入手し、大軍を装って現地の民家を焼き、タイミングを見計らって全軍に出撃を命じた。

 結果、彼の狙いは敵中。平氏方は想定外の急襲に慌てふためき、安徳天皇やその生母である建礼門院徳子らの女房衆、総大将の宗盛らが御座船などに分乗して沖に逃げ、義経軍が内裏に火を掛けた。

 屋島はこうして陥落したが、平氏軍は相手が意外にも小勢だったことから引き返し、一門繁栄の礎を築いた平清盛の甥である教経がこのとき、奮戦。弓の名手だった彼は義経の前に武蔵坊弁慶ら一騎当千の郎党が立ち塞がる中、「そこを退きたまえ!」と叫んで鎧武者約一〇騎を射倒した。

 実際、義経が奥州平泉にいた頃から彼に仕えた佐藤継信は肩から肘を射抜かれて落馬。義経の出世を見届けることができない心残りを口にしながら絶命したという。

 だが、平氏は教経の奮戦もむなしく、その翌日、そのまま西に落ちたとされる。

 一方、『平家物語』には屋島の合戦の名場面「扇の的」のエピソードも登場する。伝説として語り継がれる有名な話だ。

 合戦中、平氏軍の船に乗った若い女官が竿の先端の扇を指差し、源氏の兵を手招きした。言うまでもなく「この扇を射よ!」という挑発である。

 むろん、船上から扇の的を射ることは至難の業。しかも、当時はすでに夕闇迫る時間だった。

 このときに射手に抜擢されたのが弓の名手で知られる那須与一。彼は当初、「射損じれば、源氏末代までの不名誉。確実に射落とすことができる者に」と辞退したが、義経が許さない。

 彼は覚悟を決め、「的を外せば、生きて再び故郷の土を踏めない。どうか的の真ん中を射抜かせてください」と神に念じ、矢を放った。

 すると、風がいくぶん弱まり、矢は見事に命中。扇が宙に舞い、風に舞いながら海に落ちると、交戦中の源平両軍から歓声が上がったという。

 この場面は『平家物語』などにおける屋島の合戦のハイライトと言えよう。

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