■『平家物語』の内容は一部が脚色されたか!?
一方、のちに関白となる九条兼実の日記『玉葉』でも、義経軍の強行日程を確認することができる。確度の高い史料だけに、義経の電撃作戦はまず史実と見て間違いないだろう。
ただ、平氏軍が内裏を焼かれて沖に逃れたあと、相手が小勢と知って屋島に巻き返したとする話ははたして、どうか。
実際、このときに大きな活躍を見せたとされる前述の平教経の存在も問題だ。
歴史書の『吾妻鏡』によれば、彼はこのすでに一年前、一ノ谷の合戦で討ち死にし、獄門に懸けられたとされるからだ。
これについてはニセ首との説もあるが、『平家物語』の内容にも疑問が残る。
むろん、「扇の的」などのエピソードにそれなりの根拠があったことは確かだろうが、やはり全体的に、脚色された可能性も考えざるを得ない。
義経が屋島を急襲して平氏軍が逃走した時点で合戦は事実上、決着していたと見るべきだろう。
その勝因は彼の奇襲が成功したことに尽きるが、もちろん、それだけではない。『平家物語』は前述のように義経が阿波国に上陸したあと、現地の武士を味方につけたことで、たまたま軍事機密を入手したとするが、あまりに都合がよすぎではないか。
義経はおそらく都にいる頃から、平氏に反発する近藤と連絡を取り合っていたはず。
つまり、その手引きで阿波に入ったのだろう。
むろん、屋島の平氏軍が三〇〇〇騎も出払っていたタイミングで義経が渡海したことも、単なる偶然ではあるまい。
一見、無謀にも思える義経の作戦は、実際は用意周到に準備されていたものと言えるだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。