「名君」説の一方で「晩年は酒浸り」!?第九代の“問題執権”北条貞時の「実像」の画像
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』主演の小栗旬

 鎌倉時代に将軍を間近でサポートし、政務を統括した「執権」職。北条氏が独占的に世襲し、幕府の実権を事実上、掌握した最高ポストで、放送中のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』の主人公は、俳優の小栗旬が演じる第二代の北条義時だ。

 そんな執権の歴代経験者の中でも、特に毀誉褒貶相半ばするのが第九代とされる北条貞時ではないか。

 貞時は得宗専制政治を確立したことでも知られ、執権職を譲って出家したあと、諸国を行脚。軍記物語『太平記』には、そんな彼の“廻国伝説”を示す次のようなエピソードがある。

 貞時が当時、上皇に逆らって家領を没収された内大臣が質素に暮らす家を訪れた。当然、執事役は訪問者が前執権であることを知らない。

 彼から没落の経緯を聞かされた貞時は名家が滅亡することを危惧。

 鎌倉に戻って上皇に執奏したことで家領が無事に戻された――。

 その行動は世のため、人のために尽くす名君そのもの。実際、「聖人は世の中のため、賢者は民のために現れる。禅閤(貞時)はまさにその仁に当たる」との言葉もあるほどだ。

 ただ、貞時は一方で酒浸りの晩年を過ごし、政務はほったらかしだったという正反対の評価もある。はたして、どちらが彼の本当の姿なのだろうか――。

 貞時の父は鎌倉時代、モンゴル帝国の二度にわたる侵攻(元寇)から日本を守った北条時宗。

 その彼が若くして亡くなったことで、貞時は弘安七年(1284)、一四歳で北条宗家(得宗家)の家督を継いで執権となった。

 とはいえ、当時の彼にはまだ、幕府を動かすだけの力量がない。

 そこで有力御家人だった外祖父の安達泰盛と北条宗家の執事を担う内管領の平頼綱が幕政を担った。

 すると、次第にその二人の権力闘争が激化。頼綱は貞時を擁して泰盛とその一族を葬り、当時の公卿の日記に「諸人恐懼」と書かれる恐怖政治を行った。

 その後、貞時は永仁元年(1293)、二三歳だったときに「頼綱が次男を将軍に据える」との密告を受けたことから彼に兵を向け、一族約九〇人とともに滅ぼして実権を回復。

 政務の合議機関だった評定衆や奉行ら幕府首脳に収賄を禁じて綱紀粛正を図り、裁判制度の改革に着手した。

 これは裁判を取り扱う引付方を廃止する代わりに七人の執奏を設置し、彼らを通じて上申された案件に自ら判決を下すというものだった。

 こうした改革は御家人から歓迎され、頼綱による恐怖政治の時代には表面化することがなかった訴えが次々に届くようになったという。

 とはいえ、すべての案件を単独で判断することは当然、物理的に不可能で、執奏制度は一年で廃止され、引付方が復活。

 一方、貞時の政策で最も有名な「永仁の徳政令」も悪法との評価がある。

 これは元寇以降、窮乏していた御家人を救済するために永仁五年(1297)、彼らが質入れした土地の取り戻しを認めた制度である。

 ところが、これは裏目に出て、御家人の生活は逆により困窮した。

 一方、貞時は得宗専制政治を断行。その象徴がいずれも得宗家の一員である師時と宗方の二人だ。

 貞時は師時に執権を譲る一方、宗方に侍所所司や得宗家政所執事など重要ポストに任せた。

 ただ、貞時の政治は間もなく瓦解した。嘉元三年(1305)に宗方が突如、「貞時の仰せ」と称し、執権の補佐役である連署の北条時村の屋敷を襲撃したからだ。

 殺害された時村は北条一族の中でも庶子家の長老格で、事件発生から間もなく、襲撃の大義だった「貞時の仰せ」が誤りであると判明。

 屋敷を襲った大将格一二名中、逃亡した一人を除く全員が斬首され、貞時が直後に善後策を講じるため、師時の屋敷で評定を開いていると、宗方が手勢を率いてやって来た。

 ここで評定衆の一人が制止しようとしたことから戦いに発展し、結局、双方ともに討ち死に。

 幕府の追手がその後、宗方の屋敷を襲った一連の事件は鎌倉時代、何度も繰り返された抗争の中でも特に謎が深い。

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