■廻国伝説は祖父の話が下敷きとなった創作か
宗方がライバルだった時村を排除するため、貞時の名を利用したともいわれるものの、事件発生から襲撃犯の処刑までに八日を要し、当局の反応も実際、鈍かった。
だからだろうか、歴史学者である細川重男氏は自身の論文『嘉元の乱と北條貞時政権』の中で次のような説を提唱している。
まず、得宗家による専制政治を推し進める貞時にとって、北条庶子家の長老だった時村は邪魔な存在で、彼の殺害を従弟だった宗方に命令した。
だが、予想以上に反発が大きく、結果的に宗方を切り捨てざるを得なかった――。
貞時は事件後、自身の計画が失敗したからだったのか、政治に対する関心を一気に失って堕落。
近臣だった平政ま さ連つらの諫言状には実際、「政治をしっかり行うべき」「連日の酒宴を早々と辞めるべき」などと書かれている。
これは得宗家の被官に宛てたものだが、中身は貞時を諫言したもので『平政連諫草』と呼ばれ、前述の「聖人は世の中のため――」はここに掲載された言葉だ。
とすれば、貞時がまだ、政治に意欲を燃やしていた頃の姿を思い出させるために、書かれたものではないか。
一方、『太平記』にもある諸国行脚のエピソードはおそらく、有名な謡曲『鉢の木』(コラム参照)に代表される北条時頼の廻国伝説を下敷きとした創作ではないか。
時頼は貞時の祖父で第五代執権。名君との評価も名高いことで知られるからだ。
むろん、貞時が善政を施したことは確かだが、政治そっちのけで酒浸りの生活を送り、専制政治を強行しようとした点も踏まえれば、やはり名君とは言い難いのではないか。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。