南朝の知恵袋が壬申の乱を再現!?北畠親房「北朝打倒計画の全内幕」の画像
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 延元元年(1336)一〇月一〇日、後醍醐天皇が足利尊氏に降り、天皇親政を目指した建武の新政は崩壊した。

 ところが、一二月二一日深夜、花山院(現在の京都御苑内)で幽閉されていた天皇が三種の神器とともに密かに脱出。

 大和国吉野に行在所を設けて南朝とし、光明天皇(北朝)を立てて政権を掌握していた尊氏に対抗した。

 以後、五七年に及ぶ南北朝の争乱がスタートするが、南朝では忠臣の楠木正成がすでにこの世になく、人材不足は否めなかった。

 その中で正平九年(1354)に六二歳で亡くなるまで、一人気を吐いた公卿がいた。歴史書『神皇正統記』で南朝の正統性を訴えた北畠親房だ。南朝の柱石であり、知恵袋でもある。

 その彼が、壬申の乱(六七二年)の再来を期した乾坤一擲の大作戦「北朝打倒計画」を実行に移したことはあまり知られていないのではないだろうか。

 壬申の乱というのは大海人皇子(天武天皇)が兄・天智天皇の興した近江朝廷を倒した古代最大の内乱。

 兄に警戒されていた大海人は身の危険を感じて吉野に逃れ、天智の死後に東国の豪族らの支持を得て挙兵。伊賀、伊勢、美濃と進み、やがて近江朝廷を倒して飛鳥(奈良県明日香村)で新たな朝廷を開いた。

 歴史学者の岡野友彦氏は著書の『北畠親房』(ミネルヴァ書房)で、親房が壬申の乱をモデルに打倒計画を練った可能性に触れ、歴史に長じる南朝の知恵袋が、ともに吉野に逃れた大海人と後醍醐の立場を重ね合わせたとしても不思議ではない。

 事実、親房は後醍醐が花山院に幽閉されると、皇子の一人・宗良親王を奉じ、大海人が挙兵したルート上の伊勢へと下向。伊勢神宮外宮の神官らに迎え入れられた。

 親房は『神皇正統記』の壬申の乱のくだりで「大海人が伊勢神宮を遥拝し、美濃で東国の軍勢とあわせて勝ちを収めた」と書き、伊勢を重要な拠点と考えていたことが窺える。

 そして、当時、陸奥にいた長男の顕家に「伊勢で逆徒を平らげる計りごとを巡らし、(後醍醐の)行幸をお待ちしている」という内容の手紙を送り、天皇を伊勢に迎え入れて反攻する計画を明かした。

 その顕家は陸奥の国府(宮城県多賀城市)で奥羽二州の武士らを従え、鎌倉幕府の機構をまねた組織を作り上げていた。尊氏が建武の新政府に背いて京を陥れた際、顕家は奥羽の軍勢を率いて上洛。足利勢をいったん、九州に追い落とした。

 その後、九州で勢力を巻き返した足利勢が京を奪回し、後醍醐天皇を幽閉するに至るわけだが、顕家の北畠軍が奥州に帰ったあとだったことも影響していた。

 そこで親房は再び、この長男の軍勢との連携を図る。ただし、足利勢が京を制圧した知らせが奥州にも届き、同地で彼らが勢いづいたため、顕家は国府を捨て、霊山城(福島県伊達市)に移り、苦戦していた。

 それでも彼は延元二年(1337)八月に霊山を発ち、北朝方の拠点である鎌倉を落とし、翌年の正月、美濃に達した。

 後醍醐天皇はいまだ吉野にいたが、南朝方が伊勢と美濃を押さえ、壬申の乱の再来なるかに思われた。

 一方、鎌倉を落とされた足利勢は北畠軍の後を追い、美濃で在地の武士を糾合。美濃の垂井付近にいた顕家は軍勢を引き返し、青野ヶ原(大垣市)で足利勢に圧勝する。

 この敗報が京に達したとき、北畠軍に一度煮え湯を飲まされている足利勢の首脳の中には、都を捨てて西国に引き退こうとした者もいたという。彼らが周章狼狽していた様子がよく分かる。

 逆に顕家にとっては、青野ヶ原から至近のところにある不破の関を越えれば、京までは一駈けの距離。勢いにまかせて京を衝く戦術もあったが、顕家はなぜか、そうせずに伊勢方面に道を転じたのだ。

 伊勢にいた父・親房と合流するという予定通りの行動とも思えない。みすみす勝機を逃すことに繋がるからだ。その理由はいくつかある。

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