■奥羽の北畠軍の疲弊が最大の誤算となった!?

 第一に、京から迎撃に来た足利勢一万余騎が青野ヶ原の西、関ヶ原の黒地川を背に、背水の陣を敷いていたこと。第二に、北畠軍は奥羽の北朝方との相次ぐ争乱や西上後の合戦で疲弊し、その数も減っていたこと。第三に、戦乱によって農地は荒廃し、青野ヶ原周辺で兵粮を確保することが難しかったこと。

 特に三番目は兵たちにとって死活問題。つまり、顕家は父・親房が拠点を設けた伊勢で、兵たちにたらふく食わしてやるしか手がなかったのだ。

 かくして顕家は伊勢から吉野を経て京都を目指すものの、和泉の石津の合戦(堺市)で討ち死にする。

 親房の誤算は奥羽の北畠軍が想定していた以上に疲弊していたことだった。こうして壬申の乱の再来を期した親房の計画はもろくもついえた。

 しかし、彼はそんなことではひるまない。奥羽勢が壊滅した今、自らが東国に出張り、大海人のように東国の軍勢を引き連れ、北朝を倒そうとした。

 親房は三男の顕能(次男説、養子説もある)を伊勢に残し、延元三年(1338)九月、大湊(伊勢市)から船出したものの、ちょうど台風の季節だったため、前述の宗良親王と散り散りになり、常陸国に漂着。

 同地にも南朝に靡く武士たちがいて、親房は彼らに支えられ、城をいくつか移ったあと、小田城(つくば市)に入った。

 彼はその小田城で北朝方と戦いながら、例の『神皇正統記』を書き上げ、五年間を常陸で過ごすが、その間、大事件が起きた。後醍醐天皇が崩御したのである。

 すぐさま義良親王が後村上天皇として即位したが、吉野朝廷内では北朝との和平を望む勢力が一気に強まり、その空気は小田城内に伝わって離反者が相次ぎ、ついに城主の小田治久も北朝へ寝返った。

 親房は関城(筑西市)へ逃れたが、そこも落城。海路、吉野へ逃げ帰った。彼が心血を注いだ

「北朝打倒計画」を阻んだのは北朝にあらず。敵は南朝内部にいたのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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