松本潤主演NHK大河ドラマ『どうする家康』も決定!“家系図捏造”疑惑もある天下人・徳川家康「別人説と本当の素性」!の画像
松本潤

 戦国の世をおさめ、この国に天下泰平をもたらした徳川家康。来年のNHK大河ドラマどうする家康』の主人公に決定した英傑だが、彼には系図を捏造した疑いがある。その事実関係と素性を探ってみよう。

 家康が幼少のみぎり、駿府(静岡市)で今川家の人質となっていた話は有名だ。当時彼は、今川義元の「元」の字を賜り、「松平元康」と称していた。その後、義元が桶狭間の合戦(1560年)で敗れると、祖父の時代からの居城(愛知県岡崎市)を奪い返して自立。元康の名を嫌い、「松平家康」と名を改め、次に三河を平定して「徳川家康」と称した。

 ステージが上がるにつれ、出世魚のごとく姓名をあらためていった家康だが、改名と違い、松平から徳川へ改姓するには朝廷の勅許(許可)がいる。

 永禄九年(1566)九月に三河を平定した家康は三河守への任官と徳川氏への改姓を朝廷に願い出て、その年の暮れに勅許を得た。

 徳川家の系図によると、室町時代の初めに松平を名乗った初代親氏の先祖は源義よ し季す えという鎌倉時代初めの武将。清和天皇の孫だった源経基が源の姓を賜り、その七代目の末裔にあたる。

 彼は上野国の利根川沿いの押切という地名を徳川と改め、徳川義季と称したといわれるが、その本拠は世良田郷(群馬県太田市)なので世良田義季という呼称が一般的だ。

 いずれにせよ、その世良田もしくは徳川義季は清和源氏、それも源義家の曾孫にあたるため、系図通りなら、松平氏は紛れもなく武家の名門に連なる一族だ。

 ところが、その根拠が怪しく思える事態を暴露する者が現れた。関白までのぼった公卿の近衛前久だ。彼は家康と親しく、もちろん、彼に暴露する意図はなかったのだろうが、彼が後年、子息の信尹へ宛てた回想録(『近衛家文書』)が暴露する結果となった。以下、前久の回想録をもとに経緯を振り返ろう。

 前久はいったん、三河出身の京都誓願寺住職を通じて家康から改姓と任官について依頼を受けて動いたものの、徳川の姓を称する者が三河守になる「先例(前例)がない」として認められなかった。朝廷のしかるべきところへの付け届け、賄賂の額が不足した結果と考えられる。

 そこで家康サイドが神官の吉田兼かね右みに何とかするよう依頼。すると彼は公家の万里小路邸で、ある系図を見つけてきた。

 その系図の詳細な内容は分からないが、清和源氏の庶流である「徳川」氏の中に藤原氏になった例が記載されていたようだ。

 義季の一族はれっきとした清和源氏で、回想録にも「徳川は源家にて」と書かれている。しかし、回想録は〈二流の惣領の筋に藤原氏にまかり成り候〉例があったという。

 つまり、徳川は源氏ながら藤原氏を称する者がいた――苦しいながら、そういう解釈で朝廷を納得させようとしたようだ。

 藤原氏なら三河守になる「先例」がある。そこで兼右はたまたま持ち合わせていた鳥とりの子こ 紙、すなわち鼻紙にその系図を写し取り、大事なところに赤線まで引いて前久に渡したとある。

 万里小路邸で系図を見つけたといっているが、おそらく兼右がそれを参考にもっともらしく捏造し、鼻紙に書き取ったのだろう。

 もちろん、兼右と前久が現代なら犯罪に繋がる系図詐称を無償で引き受けたわけではない。完全には履行されなかったものの、兼右には毎年馬一頭、前久には毎年三〇〇貫と馬一頭が報酬として支払われることになっていた。

 ともあれ、この時点で家康の姓は「藤原」になった。しかし、家康が関ケ原の合戦(1600年)で天下を掌握した後、慶長八年(1603)に征夷大将軍へ補任される前には「源氏」を称している。

 つまり、家康が三河守になるため藤原氏へ繋がるよう系図を捏造したとしか考えられない。

 そして前久の回想録によると、家康が征夷大将軍になるために吉良家(清和源氏の足利一族の名門)からわざわざ源義国(源義季の祖父)以降の系図を取り寄せたという。都合がよいことに、こんどはそこに松平が清和源氏の徳川に結びつくと朝廷を納得させる内容が記載されていたのだろう。当時、将軍になるには清和源氏の血筋が有利だったからだ。

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