■家康に“成りすまし”て別人が天下を獲った!?

 では、家康の本当の素性はどうだったのだろうか。彼が松平氏でさえなかったという異説を最後に紹介しておこう。明治の歴史家、村岡素一郎氏の説だ。

 村岡説によると、われわれが知る松平元康は桶狭間合戦の翌年、陣中で没し、そのあと世良田二郎三郎という者が岡崎城を乗っ取り、松平元康になりすまして天下人になったという。つまり、駿府で人質生活の辛酸を味わった“苦労人家康”と江戸幕府を開いた“天下人家康”がまったくの別人だったというのだ。

 すぐには信じられない話だが、東京大学教授で当時の史学会の重鎮だった重野安や す繹つ ぐ氏が賛同したから大変な騒動になった。

 世良田二郎三郎は駿府のささら芸人(ささら竹でつくった楽器で唄う)だった於お大だいの子で、願人坊主(家の門前に立って金品をもらい受ける乞食坊主)として諸国を放浪。

 桶狭間で今川義元が討たれた後、松平元康の嫡男を駿府城から奪い、その彼を旗印に三河武士らを糾合し、権謀術策の限りを尽くして松平一族の手から岡崎城を奪い取る。

 さきほどの徳川改姓の話でいきなりなぜ清和源氏の徳川がでてきたのか不思議に思った読者もいるだろう。しかし、願人坊主あがりの二郎三郎が世良田氏(徳川氏)の末裔なら、彼がどうして徳川の姓にこだわり、改姓を願いでたのかがわかる。

 また、家康は三河平定後、仇敵だった織田家と同盟し、のちに信長の命によって嫡男の信康を死に追いやるが、村岡説によると、その嫡男は彼がなりすました松平元康の子で、実子ではなかった。だからこそ、わが子の命より織田との同盟を重んじることができたともいえる。

 家康の素性は願人坊主――確かに興味深い話だが、今では異説としてこの話は否定されている。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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