NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も話題!源頼朝「富士の巻狩り中に死す」鎌倉中を揺るがした「噂の真相」!の画像
大泉洋

 NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』で、大泉洋演じる源頼朝が富士の裾野で狩りを楽しんでいる最中に死んだ――。

 そんな衝撃的な情報が建久四年(1193)五月、御台所(妻)の政子が待つ鎌倉へ届いた。

 結果からいうと、それはニセ情報。実際に頼朝が亡くなるのは六年後の建久一〇年(1199)正月一三日のこと。相模川に架かる橋の完成式典からの帰りに落馬し、その後、床について間もなく死去する。

 しかし、建久四年のニセ情報は鎌倉を騒がせただけに終わらず、頼朝の異母弟である源範頼の失脚事件を招く。

 いったい、なぜ頼朝のニセ情報が流れたのか。それが、どうして彼の弟の失脚に繋がったのか。事件は「日本三大仇討ち」に数えられる曾我兄弟の仇討ちも絡み、複雑な展開をみせる。その一部始終を追った。

 頼朝が富士の裾野で狩りを催した理由には、誕生したばかりの幕府の存在を世間に誇示する意味があったとみられる。

 正式には富士の巻狩りという。勢子(鹿・猪などの獲物を山などから追い下す人)を雇い、待ち受けていた武士(射手)が、いわば巻きこむようにして獲物を狩るために、そう呼ばれる。

 多くの御家人が参加し、連日にわたる大規模な催しで、酒宴も開かれ、五月二八日の夜、曾我兄弟の仇討ちが起きた。

 仇を討ったのは、父・伊東祐泰を工藤祐経の郎党に討たれた十郎・五郎の二人の兄弟。再婚した母に従い、養父の曾我太郎祐信のもとで成長し、父の仇を討つ機会をうかがっていた。

 そして巻狩りの夜にチャンスが訪れる。鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』によると、仇の工藤は、遊女を侍らせ、備前国吉備津神社の神官と酒盛りしているところを襲われた。見事、兄弟は本懐を遂げたわけだが、話はここで終わらない。

 兄弟が大声で「父の仇を討った」と叫んだので諸人の知るところとなり、騒動となった。警護の者らと兄弟が暗闇のなかで斬り合い、やがて兄の十郎は『鎌倉殿の13人』にも登場する有力御家人の一人、仁田忠常に討たれた。

 ところが、そのあとの弟・五郎の行動が不審なのだ。彼は頼朝の寝所へ走りこみ、「頼朝が剣を取って立ち向かおうとした」と『吾妻鏡』にあり、五郎が仇討ちに成功したあと、第二の標的を頼朝に定め、その首を狙ったととれる。

 結局、五郎は頼朝の側近に身柄を取り押さえられた。頼朝は五郎を許そうとしたが、父を殺された工藤の遺児が泣いて訴えるので彼に身柄を渡し、五郎は殺された。

 一方、兄弟の祖父・伊東祐親は、頼朝の旗揚げの際、平氏方として活動していたため、関東を頼朝が席巻したのちに捕えられ、自害して果てている。そのうえ祐親は、頼朝がまだ伊豆で幽閉されていた時代、娘(八重姫)が頼朝と結ばれて産んだ外孫(千鶴御前)を殺害しているのだ。

 平氏との関係を憚ったためだが、源氏の世になってみると、彼は頼朝の息子を殺害した逆賊。

 そもそも、曾我兄弟の二人は謀叛人の孫という宿命を背負い、逆に仇の工藤は鎌倉幕府の有力御家人として頼朝の信頼を得ていた。兄弟にしてみたら、頼朝は祖父に逆賊の汚名を着せ、工藤を優遇する仇の庇護者なのだ。

 つまり、曾我兄弟は父の仇を討ち取った混乱に乗じ、もう一人の仇といえる頼朝を殺そうとしたが、工藤を討つという最低限の目的しか果たせなかったというところだろう。

 ところが、鎌倉には頼朝が討たれたという情報が伝わってしまう。これがニセ情報の正体だ。『保暦間記』によると、夫が討たれたという話に政子が動揺すると、鎌倉で兄・頼朝の留守を預かっていた範頼が「そうなっても、この範頼がいるので大事ありません」といって慰めたという。

 兄・頼朝が亡くなっても範頼が新たな鎌倉殿になって御家人を束ねて参ります、つまり、範頼が次の鎌倉殿になると宣言したようなものだ。この発言を頼朝が聞けば、どう思うだろうか。

 もう一人の弟・義経とちがい、どこか凡庸な印象の範頼だけに、ライバルだと一度も思ったことがなかった頼朝が、彼も人並みに野心はあるのだと思い直し、警戒しはじめたとしても不思議ではない。

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