■範頼は言い逃れできず伊豆に流され殺された
『保暦間記』は南北朝時代成立の史料だが、その内容はまずまず信頼できる。『吾妻鏡』には具体的な記述はないものの、八月二日付で、叛逆の企てありとの疑いを晴らそうと、範頼が起請文を頼朝に献上した事実だけ報じている。
富士の巻狩りから二か月以上の日数がたっているものの、範頼が政子に伝えた慰めの言葉が回り回って頼朝の耳に達するまで、それだけの期間がかかったのだろう。
政子が範頼を失脚させるために頼朝に直に例の話を伝えたともされるが、それなら二か月もかからず、範頼が弁解のための起請文を差し出すタイミングはもっと早くなっていたはず。
範頼に叛意の欠片でもあれば話は別だが、彼は、異母兄弟の義経が兄・頼朝と対立し、この四年前に葬り去られた事実を知っているので、息をひそめて暮らしていた。そんな人物を失脚させても意味はない。
しかし、政子が直に頼朝に話さずとも、いったん話が洩れると、忠臣ぶって進言する者が現れるもの。頼朝はそもそも猜疑心の強い性格だし、曾我兄弟の一件があったため、二人の兄弟をそそのかして自分を討たそうとした黒幕が範頼だと誤解したのかもしれない。
そして八月一〇日の夜、こんどは範頼に仕える郎党が先走ってしまう。起請文を提出しても何の音沙汰もなく、範頼がたいそう悲嘆しているので、その郎党が頼朝の寝所の床下に忍びこみ、本音を探りだそうとして捕らえられたのだ。
こうなったら範頼がいかに弁解しようとも、もはや言い逃れできず、彼は伊豆の修善寺へ流されて殺されるのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。