南北朝時代の“美意識”を体現!「婆娑羅大名」佐々木道誉の生き様の画像
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「この頃都にはやるもの。夜討強盗謀綸旨……」で始まる『二条河原の落書』は、南北朝時代の社会を風刺した文書として有名だ。

 その落書に「都にはやる」ものの一つとして「バサラ」という言葉が登場する。「人目を驚かせる服装で飾りたてることや常識にとらわれない行動」を指し、南北朝時代の流行語だったといえる。

 そのバサラ(漢字では「婆娑羅」)を地で行った男が佐々木高氏。出家名の道ど う誉よ で知られる武将だ。

 服装のみならず、彼の生涯は人を驚かせることばかり。寝返ったフリをして敵を欺くのは常套手段。相手が天皇の弟であろうが、気に食わなければ平気でその邸宅に放火する。

 おのれの感情のおもむくままに生きた道誉のバサラな生涯を追った――。

 彼の祖は佐々木秀義。NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』に源頼朝の旗揚げメンバーとして登場する。頼朝の軍勢が伊豆の目代らを襲った際、二男・佐々木経高の放った矢が源平合戦の文字通りの第一矢になったと『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式歴史書)にいう。

 その経高の兄・定綱の曾孫の時代に、佐々木氏は六角氏と京極氏に分れ、京の六角堂(中京区)付近と京極高辻(下京区)にそれぞれ邸があったことから、そう呼んでいる。

 その京極氏初代から数えて四代目にあたるのが道誉。したがって京極道誉というのが正しい名だ。

 つまり、京極家は鎌倉幕府が京を守護するために置いた六波羅探題に出仕する在京御家人の家柄だった。

 道誉は永仁四年(1296)に生まれた。彼が初めて歴史に名を残すのは元弘二年(1332)。その年、後醍醐天皇の討幕計画が失敗し、隠岐に流されることになり、道誉がその警護に当たった。

 ところが、翌年閏二月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し、いよいよ討幕の動きが加速。足利尊氏(のちの室町幕府初代将軍)が三月に幕府の命で反乱鎮圧のために鎌倉を発ち、途中で裏切って六波羅探題を攻め落とした。

 その足利勢に従軍した道誉が腰越(神奈川県鎌倉市)で鎌倉府内へ向け、鏑矢や(射ると大きな音を出す矢)を射たという。

 道誉の子孫は江戸時代に丸亀藩主(香川県)におさまるが、今の話はその記録に掲載される。頼朝挙兵の際、先祖の佐々木経高が源平合戦の第一矢を放った故事にちなんだのだろう。

 江戸時代の編纂物に掲載される話だから、その真偽は疑われるものの、道誉が尊氏の討幕戦に当初から力を貸していたのは事実だ。

 鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇の新政の時代になると、尊氏が叛意を示し、後醍醐方の武将・新田義貞と戦うが、道誉は尊氏方として従軍。手越(静岡市)の合戦で弟の貞満が新田勢に討たれる敗戦を喫し、降参した。

 だが、降参したのは身を処すための方便。その後、箱根の竹下(神奈川県小川町)で足利・新田両軍が衝突した際、足利方に加わり、勝利を得ている。

 そして、吉野の後醍醐天皇と光明天皇(尊氏が擁立した天皇)の南北朝が抗争に入って四年後の暦応三年(1340)、妙法院焼き討ち事件が起きる。

 妙法院(京都市東山区)は天台宗比叡山延暦寺の門跡寺院の一つ。法親王(出家した皇族)らが住む寺を門跡寺院と呼び、光明天皇の弟、亮性法親王(のちの天台座主)が当時の妙法院門跡だった。

 道誉はその頃、尊氏の政権誕生に貢献し、栄達ぶりが人目を驚かせていた。一○月六日、その道誉の嫡男・秀綱の一行がバサラな装束に身を包み、鷹狩りの帰りに妙法院の前を通りかかり、伴の者が軒の上にかかる紅葉の枝を折った。

 その光景が寺内で紅葉を愛でていた法親王の目にとまり、坊官(門跡寺院の役人)が門前の一行を咎めたが、逆に彼らは坊官らに嘲笑を浴びせかけ、さらに大きな枝を折る始末。

 これに激怒した宿直の山法師(僧兵)が枝を奪い返し、一行を散々に殴り叩いて追い返した。

 こんどはその話を聞き、道誉が激怒。「相手が門跡であろうが、この道誉の身内に左様に振舞うとはけしからん」と法院を焼き討ちにしたのだ。

 さすがに尊氏も庇いきれず、道誉は出羽に配流となったが、その道中のこと。

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