■道誉の“バサラ”ぶりは70歳を越えても衰えず
道誉は供の者五〇〇騎ばかりと都を発ったが、彼らはみな馬上、猿の皮でできた靭うつぼ(矢入れ)や腰当をつけていた。猿は、天台宗の護法神である日ひ吉え大社の使いとされる神獣。道誉は懲りるどころか、延暦寺を嘲笑しつつ、宿駅では酒盛りを繰り返し、物見遊山のごとくだったという。しかも、配流先へ向かわず、すぐ都に戻ったようだ。
その後、康安元年(1361)に一時、南朝に京を奪われた際、道誉は「敵の大将(楠木正成の三男・正儀)にわが邸を使っていただこう」と言い、客間に畳を敷き詰め、本尊・脇絵・花瓶・香炉などを並べ、書院には王義之の書まで飾って退去したという。彼のバサラな人生を象徴する出来事だ。
その後、尊氏・直義兄弟が幕府の主導権を争った観応の擾乱(1350~1352)では一貫して尊氏に忠誠を尽くし、その死後には二代将軍義よし詮あきらの信任を得て、幕府の人事に影響を及ぼした。
しかし、幕府の執事(のちの管領)人事を巡って幕府の重鎮の一人、斯波高経と対立。その二人の関係が冷えきっていた貞治五年(1366)のこと。すでに七一歳になっていた道誉のバサラぶりはいささかも衰えてはいなかった。
この年の三月四日、高経が将軍の御所で花見の宴を主催。道誉はその宴に出席すると言っておきながら、同じ日、京の郊外・大原野で盛大な花見を催行。その華美な催しに、高経の花見の宴はかすんだという。
以上、道誉のバサラな主な逸話は軍記物の『太平記』による。内容の信憑性が疑われる史料だが、妙法院焼き討ちなどのように公卿の日記(『中院一品記』)で裏付けられる逸話もある。
道誉は応安六年(1373)、本拠にしていた近江国甲良荘(滋賀県甲良町)で死去したとされるが、バサラを貫いた生涯であったのは間違いなさそうだ。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。