■「遊戯王が最後に残したもの」
若き日の高橋氏は、当時10代で“マンガ君”というあだ名で呼ばれていた森川氏と一緒になけなしのお金でボーリング場で朝まで過ごしたり、『修羅の門』(講談社)などの作者である川原正敏氏がたまに合流してジュース代もない2人の面倒をみてくれたこともあったという。
「その後、高橋先生は『遊☆戯☆王』を大ヒットさせ、仕事場も“部屋中に溢れるフィギュアで奥にいる和希を確認できるまで時間がかかるほど”な高層マンションへと移動。40歳を超えた時期に、森川先生は高橋先生の仕事場を訪ねたといいます。『遊戯王』が連載終了した2004年の時点で43歳前後なので、そのころでしょうね」
森川氏はそこで高橋氏から「おいマンガ君、お前いつまでこんな面倒くさい仕事やるの?俺はもう辞めるよ」と言われたことを振り返り、「またしてもこの人の才能を羨ましく勿体ない」と思いつつ「余計なお世話だよ」と返したことを回想。
「驚くことに、『遊戯王』のスピンオフでスタッフ4,5人全員が連載デビューしたといいます。そのため高橋先生は《責任を果たした》《漫画に思い残すことはない》と森川先生に話したそうです。そして、アニメーター志望だった高橋先生は原点回帰としてPCでコツコツとアニメを作っていた、とのことです」
こうした思い出を語ってから森川氏は、
《ふと思う。
何故あの時作りかけのアニメを見せてもらわなかった?
故人のPCを開けるのは親族以外はタブーだと思う。
しかし遊戯王が最後に残したものはなんだったのか。
おそらくそこに収められているのは羨ましくて勿体ない「才能」というカードに違いない。
長文失礼しました。
黙祷ー。》
とツイートを締めた。
「高橋先生の訃報がテレビニュースになった際、街頭インタビューでは“○○代・会社員”などとするべきところを“○○代デュエリスト”と表記していたうえ、それがすんなりと受け入れられていることもツイッタートレンド入りを果たしていました。もうこんな現象を起こす漫画家は、現れないでしょうね……」
森川氏は先述の追悼文とは別に、
《何年か前かのまた麻雀やろうな」という去り際の言葉が最後に聞いたセリフになってしまった。漫画についての会話はほぼしたことなかったな。ラスベガスの思い出や海の中の景色のことを楽しそうに話していた。最後も麻雀か。あなたが遊戯王ですね。》
ともツイートしている。
世界的な存在の漫画家、クリエイターとなった人物の知られざる物語。改めて、追悼の意を表します。