古代日本の発展に尽力した政治家・蘇我馬子「“甥殺害”悪人伝」の真相の画像
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 古代日本を代表する政治家の一人が蘇我馬子。ヤマト朝廷の大臣として戸籍の整備をはじめとする開明的な政治を行い、文化面でも新しい思想である仏教を積極的に取り入れた人物――そう好意的に評価される一方、姉妹の小姉君が産んだ王子二人(穴穂部と泊瀬部王子)を殺害したと批判されている。

 泊瀬部はのちに崇峻天皇として即位する人物。日本史上、臣下の者が天皇を殺害したのは後にも先にも例がなく、唯一、馬子だけ。

 まず穴穂部殺害の動機については、馬子の政敵物部守に皇位継承者として担ぎ上げられたからというのが通説だが、一方の崇峻殺害の動機は『日本書紀』にこう記される。

 592年一〇月、あるところから山猪が朝廷に献じられた際、崇峻はその猪を指さし、「いつの時か、この猪の首のように、朕の嫌いな男の首を斬り落としてみせようぞ」と言い、武器を整えさせた。

「朕の嫌いな男」というのは馬子のこと。この話が馬子の耳に入り、彼が崇峻の先手をとったわけだ。『日本書紀』にはなぜ崇峻が馬子を嫌うのか、具体的な理由は書かれていないが、両者には政治路線を巡る対立があり、通説は、馬子が言うことをきかない甥の崇峻を殺し、姪の推古( 額田部王女)を即位させ、政治の主導権を握ろうとしたとする。

 それが事実なら、馬子は、みずからの権力維持のために王子と天皇を殺した悪人ということになろう。

 彼が古代社会の発展に尽くした政治家であるのは事実だが、その一方で本当に悪人の汚名を被るような人物だったのか、真相を探ってみよう。

 蘇我氏は古代の豪族葛城氏の一族。五世紀に朝廷の政治を担った葛城一族の多くは雄略天皇に滅ぼされたが、大和国曽我(奈良県橿原市)を本拠とした一族が生き残り、馬子の父・稲目の時代に再び勢力を盛り返した。

 稲目は堅塩媛と小姉君の娘二人を欽きん明めい天皇の后とすることに成功。天皇家と以下のような関係を築いた。

・堅塩媛=用明天皇と推古天皇の母(つまり、稲目は両天皇の祖父)。

・小姉君=前述した二王子と厩戸王子(聖徳太子)の母を産む。

 馬子はそんな父の遺産を引き継ぎ、敏び達だつ天皇(用明や推古と同じく欽明天皇の子)が即位した年(572年)、二〇代前半の若さで大臣となった。敏達天皇の母は蘇我氏ではないが、その后は額田部。前述の通り、のちに推古として即位する女性で馬子の姪にあたる。

 そして、585年に敏達天皇が崩御したとき、その額田部と穴穂部が朝廷を騒がせた。敏達の后だった額田部は当時の慣習として殯もがりの宮みや(遺体を安置する所)に籠もり、夫の喪に服していた。その殯宮へ、

「天下を取る」と公言して穴穂部が押し入ろうとした。喪に服す天皇の未亡人と男女の関係になろうとしたのだ。額田部は彼にとって、異母姉にあたるが、男女の関係になれば、天皇になれると考えたのだろう。

 この穴穂部の企ては未遂に終わるが、まず彼が権力欲にまみれた人物であったことを強調しておきたい。

 次いで、用明天皇の即位後、物部守屋というスポンサーを得て、穴穂部は再び暴走する。殯宮へ押し入ることを三輪の逆(詳細は後述)に阻まれたとして、彼のいる用明天皇の皇居( 磐余池辺双槻宮=奈良県桜井市)を物部の兵に包囲させたのだ。口実にしているが、これは、用明に退位を迫り、物部氏の武力によって穴穂部自身が皇位につこうとする企てに他ならない。これも不成功に終わるが、彼は、額田部との一件で自分の企てを邪魔した三輪逆だけはどうして許せなかったらしく、物部の兵に命じて殺させる。

 しかし、逆は敏達の寵臣だった。このため額田部は、夫の寵臣を自分勝手な理由で殺害し、自分を犯そうとした異母弟を激しく恨むようになったという。587年五月に用明天皇が崩御すると、ますます穴穂部と守屋のタッグは強固になり、警戒した馬子が実力行使に踏み切る。その年の六月、『日本書紀』はこう記す。

「蘇我馬子らが炊かしき屋や姫ひめ(額田部のこと)の詔を奉じ、佐伯連らに命じて穴穂部王子らを誅殺させた」

 あくまで主語は馬子だが、当時、皇太后(先代の天皇の后)の地位にあった額田部の詔によって誅殺命令が出されているところがポイント。それだけ皇太后の政治的位置が以前よりあがった証拠だ。またそこには、穴穂部を恨んでいた額田部の意志も感じられる。

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