■崇峻殺害の“黒幕”は日本初の女帝だった!?
次の崇峻天皇殺害も以上の文脈に従うと、別の解釈が見えてくる。
翌七月、額田部を奉じた馬子をはじめとする勢力が朝廷で主流派となり、追い込まれた守屋は本拠の河内国渋川(大阪府八尾市)の館に籠ったものの、馬子らの兵に敗れ、ここに物部氏は滅んだ。
そして九月、馬子らの朝廷主流派に担がれて崇峻が即位。
しかし、彼は馬子と額田部の意志に反して倉く ら梯は しの地に都を遷した。現在の行政区分でいうと、用明天皇が皇居を営んだ磐余も同じ奈良県桜井市となるが、倉梯の地は山深い里。
しかも、馬子と額田部の叔父姪コンビは、飛鳥(奈良県明日香村)に本格的な仏教寺院である飛鳥寺を造営し、そこを都にする考えだった。磐余でも飛鳥でもない地への遷都は、政治の主導権を握る馬子と額田部へのあてつけとしか思えない。
さらに崇峻は本格的な朝鮮出兵を計画し、飛鳥寺を中心とする王都建設を優先する馬子や額田部と対立したとみられる。
このほかにも崇峻と政治路線で対立し、崇峻殺害にはこの叔父姪のコンビによる「共同謀議説」が提案されている(遠山美都男著「蘇我氏四代の冤罪を晴らす」参照)。
そして592年一一月、東国からの貢物が朝廷に献上される儀式の場で、崇峻は馬子らに命じられた東漢駒という渡来人に殺害された。
こうして額田部が即位。飛鳥豊浦宮を皇居とした。日本初の女帝(推古)の誕生だ。
馬子が天皇殺害を配下の者に命じても、何のお咎めもなかったことから、この事件には馬子の他に黒幕がいたのは明白だし、その人物こそが、皇太后として力を誇示していた額田部であったといえよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。