あの松尾芭蕉も憧れた漂泊の歌人西行法師「熟女好きが出家原因!?」の画像
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 平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて活躍した漂泊の歌人、西行法師。

 将来を嘱望されながら、それまでのキャリアを捨てて出家し、和歌を詠みながら思いつくまま全国を巡る――そんなどこか羨ましい生活を送った人だ。

 このため、各地に西行にまつわる伝説が残り、『奥の細道』で知られる江戸時代の俳人、松尾芭蕉も西行に憧れを抱いた一人。

 出家の動機には諸説あるものの、『源平盛衰記』(鎌倉時代の半ば以降に成立した軍記物)にはこう書かれている。

「西行の発心(出家)の原因をたどると、その源は恋にある。口にするのも憚られる上臈女房に思いをかけ、一夜だけの契りだったのに、崇徳上皇に、度重なれば阿漕浦というものだと言って窘められ、無念やるかたなく彼女への思いを断ち切って出家した」(以上意訳)

 つまり、身分違いの女性との悲恋が原因で出家したというのだ。

 阿漕というのは三重県津市東部にある海岸のことで、そこは伊勢神宮に供える魚の漁場として殺生禁断の土地だった。そこから阿漕は「ずうずうしい」「あくどい」などという意味に使われるようになった。

 西行のその“あこぎな恋”のお相手が鳥羽院(上皇)の中宮(后)で、崇徳上皇の生母の待賢門院璋子だと伝承される。本当に彼は鳥羽院の后と一夜を共にするという大胆なことをしてのけたのだろうか。

 その西行の本名は佐藤義清。先祖は平安時代半ばの豪族、藤原秀郷だ。平将門を討って一躍名を挙げ、その末裔たちは鎌倉幕府の御家人として栄えた。

 西行の曾祖父藤原公清の時代はまだ、その幕府が誕生する前だが、紀伊国那賀郡名手郷(和歌山県紀の川市)に所領を持ち、都の警備を担う検非違使として活躍した。

 なお、公清が左衛門尉に任官したので、その「左」と藤原の「藤」を合わせ、「佐藤」と名乗るようになったといわれるが、公清の祖父が佐渡守だったため、佐藤の「佐」は佐渡にちなむという説もある。

 秀郷の子孫はいくつかの系統に分かれるが、西行の家はその嫡流に当たるとされ、秀郷流の武芸の奥儀(理論)は彼に受け継がれ、こんな後日談を残すことになる。

 西行の出家後、すでに鎌倉殿になっていた源頼朝から御所へ招かれた際、その奥儀について諮問され、いったん彼は「罪業の原因となるのですべて忘れました」と答えたものの、最後には詳しく話し、頼朝はわざわざ幕府の役人にメモまでさせたという(幕府の公式歴史書『吾妻鏡』)。

 一方、出家前の彼は鳥羽院の北面武士(武士たちが院の御所北面に詰めていたため)として仕え、秀郷流の武芸の奥儀を継承する者として、さらには流鏑馬(疾走する馬の上から矢を的に射る武術)の名人として、将来を嘱望されていた。

 ところが、保延六年(1140)、二三歳のとき、そんな立場をあっさり捨ててしまう。『西行物語』という鎌倉時代の伝記にはこのとき、彼が俗世の執着を絶つために心を鬼にして娘を庭へ蹴り落として出家したとある。

 真偽は分からないが、いくつかの史料で彼に妻と娘がいた事実は確認できる。西行がそれまでのキャリアのみならず、妻子も捨てて出家したのは確かだろう。

 彼がそこまで決意したのにはよほどの事情があったはず。北面武士の同僚が急死し、世を儚はかなんで出家したという説もあるが、西行が「うかりし人(つれない人という意味)」によって出家の決心がついたという趣旨の歌を詠んでいるから、やはり、出家の一因は悲恋にあったといえる。

 その相手を待賢門院とする根拠の一つは、西行が彼女の兄、左大臣徳大寺実能の家人だったこと。この時代、武士たちは有力な公卿の家人となり、朝廷や院でのキャリアを積むケースが多かった。

 西行は北面武士の佐藤義清として鳥羽院から待賢門院の警護を依頼されることがあったはず。

 その際、待賢門院が、兄の家人という親しさもあって、歌の名手である西行を側近くに呼び寄せたとしても不思議ではない。

 しかし、『源平盛衰記』がいう「上臈女房」の「上臈」が身分の高い女性を意味するのは事実ながら、「女房」というのは御所勤めの女官のこと。

 待賢門院は女官たちが仕える主人であって、そもそも上臈女房という範疇には当てはまらない女性だ。

 そうなると、誰が西行のお相手なのだろうか。

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