大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場!北条氏と三浦氏が血みどろ抗争!鎌倉幕府の命運を分けた宝治合戦の画像
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 鎌倉幕府の執権・北条一族に次ぐ有力御家人が、三浦一族だ。

 大河ドラマ鎌倉殿の13人』に登場する義澄と義村父子、さらには義村の嫡男・泰村と三代にわたって幕府を盛り立ててきた。

 そんな有力一族が事実上、宝治元年(1247)六月五日、たった一日の合戦であっけなく滅んだ。その宝治合戦は、安達景盛が無理やり合戦に持ち込んだと『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式歴史書)に記載される。

 その安達一族も『鎌倉殿の13人』に登場する盛長とその嫡男・景盛が幕府を支え、北条氏の外戚となった。

 安達一族は「深秘御沙汰」(幕府の秘密会合)のメンバーに選ばれるまで出世したが、景盛はその地位をより確実なものにするため、北条氏と連携してライバルの三浦一族を葬り去ったとするのが通説だ。

 事実、宝治合戦で三浦一族が滅んだあと、霜月騒動(1285)で敗れるまで北条氏に次ぐ権勢を誇った。

 しかし、そこには前将軍・九条頼経を巻き込んだ、よりスケールの大きな抗争が見え隠れしている。

 その頼経は源氏の将軍(鎌倉殿)が三代(頼朝、頼家、実朝)で滅んだあと、わずか二歳で京の藤原摂関家から鎌倉に下向して元服し、のちに将軍になった人物。

 それでは、彼が執権・北条経時によって将軍の権限を一部奪われた寛元元年(1243)から宝治合戦に至る流れを追いつつ、真相に迫ってみよう――。

 まず寛元四年(1246)閏四月、将軍権限の一部を奪われていた頼経は当時、すでに嫡男の頼嗣(当時八歳)に将軍職を譲っていたが、『鎌倉年代記裏書』(鎌倉時代の歴史書)という史料に、北条一族の光時という者が頼経に「御謀叛」を勧めたという話が掲載されている。

 頼経に謀叛を勧めた光時は北条氏の庶子家( 名越家という)に当たるものの、わが家こそが北条氏の嫡流だという思いが強く、「義時、泰時、経時、時頼」と続く得宗家に反感を抱いていた。

 しかし、彼がただ得宗家から執権の職を奪おうとしていたのでないことは『宝暦間記』に「光時は将軍(頼経)に権力を握らせようと企てた」とあることで明らか。この史料は南北朝時代に成立したものだが、この記述内容は信用できる。つまり光時は、得宗家の時頼によって権限の一部を奪われた将軍頼経の権力回復のために動いていたことになる。

 すなわち、『鎌倉年代記裏書』は謀叛といっているが、幕府を正常な形に戻そうとした企てだった。

 この頃、重病に陥った経時に代わって弟の時頼が執権となり、この年の七月八日、光時は時頼によって先手を打たれ、伊豆へ配流となり、続いて将軍頼経も鎌倉を追放された(これを「寛元の政変」と呼ぶ)。

 そして、光時とともに将軍頼経の側近だったのが三浦泰村の弟・光村。『吾妻鏡』は彼を「二十余年の間、(頼経の)側近だった」と記し、その前将軍が鎌倉を追われて帰洛した際に供をし、京での別れ際、光村は「御簾の前から数刻離れようとせず、とめどなく涙を流した」(『吾妻鏡』)という。

 一方、関白・近衛兼経の日記に「頼経が猛将らと語りあい、泰時の子息ら(執権・時頼らのこと)を討たせようとした」とある。

 頼経との関係から見て、「猛将ら」に光村が含まれるのは間違いない。

 つまり、三浦一族は「寛元の政変」に表面的に関与していないように見えて、その実、水面下で前将軍の意を受けて動いていたのだ。『吾妻鏡』は事件の渦中、時頼が執権邸に光村の兄・泰村を呼んで話し合ったとしか記載していないが、このとき、北条と三浦を代表する時頼と泰村が幕府を混乱させないために事件の幕引きを図ったのだろう。

 宝治合戦が起きるのは、その翌年のこと。手打ち後も、北条と三浦一族との間の火種は依然として燻り続けていたのだ。

 以下、『吾妻鏡』に従って流れを追うと、まず宝治元年四月、安達景盛がたびたび時頼邸を訪ね、何やら進言している。おそらく三浦を討てという進言だったのだろう。

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