■得宗家と将軍派勢力の争いが背景にあった!?
五月二一日には、泰村に「誅罰が加えられる」という木札が鶴岡八幡宮の鳥居前に掲げられたが、その頃、時頼は泰村邸に数日間寄宿し、接待を受けている。
この時頼の狙いは定かではないものの、三浦との関係修復を図るために、あえて敵の懐に飛び込んだのか、それとも逆に三浦の罠にはまったのか。事実、邸内では鎧や腹巻などの武具を着ける音が時頼の耳にまで届いたという。
その後も「三浦邸内に武器がどんどん運び込まれている」などと緊迫感は増していくが、六月五日、時頼は使者を泰盛の元へ送り、一転して両者の和議が成立する。このとき泰村は過度の緊張感から解放された安堵感から、妻にすすめられた湯漬けを食べてすぐ嘔吐したという。
ところが、安達景盛がこの話を伝え聞き、子息らに命じて泰村邸を襲わせた。いったん戦いが始まると、後家人らが安達勢に加担し、三浦一族は、頼朝の御影を祀る法華堂に籠もり、泰村以下、主だった者二七六人、都合五〇〇余人(一族以外の御家人も含まれる)が自害して果てた。
和議をひっくり返したのは安達一族だから、そのため、彼らがライバルの三浦一族を葬り去るために仕組んだといわれるのだ。
確かに安達一族が合戦を仕掛けたのは事実だが、法華堂に籠ったあと、光村が洩らした話がこの事件の本質を浮き彫りにしている。逃げ遅れた法華堂の僧が屋根裏に逃れ、彼の言葉を聞いていたのである。
光村は「入道御料(頼経)の代に、命に従っていれば当家が滅亡することはなかった」と言ったという。
しかも、彼は頼経が京へ追放された際、「ぜひもう一度、鎌倉へお迎えしたい」という心情を『吾妻鏡』で明らかにしている。
やはり事件の背景に、将軍の権威を奪おうとする得宗家と将軍家を盛り立てようとする勢力(前述した「猛将たち」)の争いがあり、後者が敗れたということなのだろう。
つまり、宝治合戦は執権政治か、鎌倉殿(将軍)による親政か――今後の幕府の重大な選択を決める戦いだったといえよう。