信長の居城に迫る途中で討ち死に!今川義元の「油断とその舞台裏」の画像
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 永禄三年(1560)五月一九日、尾張侵攻を図る今川義元は駿河、遠江、三河の大軍を率い、織田信長の居城清洲城(愛知県清須市)へ迫っていた。

 義元はその日の夕方、今川方が尾張領内に築いた前線基地の大高城(名古屋市)に入り、翌二〇日に清洲城を攻める予定だったとみられる。

 しかし、彼は大高城に入ることなく、その手前の桶狭間(名古屋市もしくは愛知県豊明市)で信長の軍勢に討ち取られた。

 このとき、『信長公記』は、「義元の矛先には、天魔鬼神もかなわない。何とも心地はよいといって、悦に入り、ゆるゆると謡うたいをうたわせ、(桶狭間で)陣をすえてしまった」と記す。

 桶狭間から大高城まで直線距離でおよそ五キロ。義元は前夜に松平元康(のちの徳川家康)へ命じ、その大高城に兵粮を運ばせていた。

 そこまで準備させているのだから、桶狭間で休息などをせず、そのまま五キロを行軍して大高城へ入っておけば、首を敵に与えることもなかったのだ。

 義元が大高城へ入らず、なぜ、わざわざ手前で休息したのか。城に入ったほうが危機管理上のリスクははるかに低くなるはずだ。

 義元が織田勢を侮り、油断していたというのが通説だが、もしそうなら、義元が油断した具体的な理由を明かさねばならない。

 令和元年(二〇一九)に発見されたという史料を中心に、改めて検証してみよう――。

 まず、『甲陽軍鑑』を参考にすると、この日はちょうど梅雨の晴れ間が広がり、蒸し暑く、兵に休息を与える必要があったようだ。

 しかし、それが決定的な理由とはいえない。そこで、『信長公記』によって、その日の信長の動きを確認しておこう。

 一九日の明け方、清洲城にいた信長は、今川勢が織田側の丸根、鷲津両砦(いずれも名古屋市)に攻めかかってくるという報告を受け、急に舞を演じ始める。題目は『敦盛』。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢ゆ め幻まぼろしのごとくなり。一度生を得て、滅め っせぬ者のあるべきか……」

 そうして舞を終えるや、信長は「法螺吹け、具足よこせ」と側近に命じ、立ちながら「御食」(粥のようなもの)で腹を満たすと、赤母衣衆と呼ばれる親衛隊の五騎を率いて城を飛び出していった。

 信長とともに、まだ明けやらぬ尾張の大地を駆け抜けた主従六騎に続いて、やがて、「雑兵二百ばかり」が後を追い、信長は熱田神宮(名古屋市)で彼らが到着するのを待った。

 午前八時頃、鷲津、丸根両砦が陥落したらしく、信長は熱田神宮の門前で両砦から上がる煙を遠望している。

 ただ、両砦こそ陥落したものの、織田方にはまだ、丹下・善照寺・中島(いずれも名古屋市)の各砦が残っていた。

 信長はまず丹下砦に入ると、そこから先の善照寺砦へ軍を進めた。このとき、三〇〇の兵を率いて中島砦を守っていた佐々隼人正と千秋四郎の両将は、信長が近くまで来たと聞いて奮い立ち、今川勢の先陣に戦いを挑み、玉砕に近い打撃をこうむった。

 その両将の首は義元が見分したはずだ。義元にしたら、織田方の丸根、鷲津両砦があっさり陥落し、次いで敵の一隊を壊滅させる勝利を挙げたわけだ。

 こうして彼は油断し、かつ、織田勢を侮り、初戦の勝利を祝うため、桶狭間に陣を据えた――これが油断の主な理由というのが通説だった。

 しかし、それでもなお、納得しかねるという読者がいるのではなかろうか。

 信長の本隊がどこかに存在している限り、いくら初戦の勝利を祝うためといってもリスクが高いからだ。

 そこで令和元年発見の新史料を参考にしてみよう。筆者は新史料そのものをじかに読んだわけではないが、その内容が歴史雑誌に公表されている(太田輝夫著「桶狭間合戦 今川新史料の発見」/『歴史研究』689号)。

 その新史料は桶狭間合戦場とその周辺の絵図に、事細かく時間の流れを追って両軍の動きを記載したもの(『桶狭間之合戦絵図』)。

 尾張藩の藩校初代校長の落ら っ款か ん(作品に記す署名捺印のこと)があり、「元今川家家臣の内密実記」と書かれているという。

 つまり、今川の旧臣の家に秘密裏に伝わってきた実録とのことだ。

 そこに「信長が笑止なことにわずか四百で砦から出陣してきた」「我こそは織田上総介信長なりと口上して突撃してきた」「(今川方の)井伊直盛(のちに家康に仕える井伊直政の祖父)の家臣が信長を討ち取った」とあり、「信長が討ち死にしたので祝宴した」(以上、意訳した内容の要旨)と続く。

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