■身が意図して「信長死す」の情報を流した!?
もちろん、信長は今川勢に討ち取られていないのだから、井伊直盛の家臣が信長を討ち取ったというのは明らかに誤報。玉砕した佐々、千秋両将の軍勢を信長が率いたものだと勘違いしたのだろう。
そして、「我こそは信長なりと口上して突撃してきた」というくだりから、信長が佐々、千秋軍の中に、いわゆる自身の影武者を立てたことが窺える。
つまり、信長が自ら討ち死にしたと装い、義元の油断を誘う作戦を立て、それが見事に成功したという解釈が成り立つのだ。
信長死す――そのにせ情報が合戦場に流れ、それを鵜呑みにして義元が桶狭間で祝宴を開いたのだとすると、彼の油断の理由がよりはっきりする。
筆者はかねてより、信長が義元の油断を誘うために、佐々、千秋軍を玉砕させる考えだったという仮説を述べてきた。
さらに仮説を重ねると、影武者のみならず、信長が意図して「信長死す」の情報をバラ撒いた可能性もあろう。
江戸時代に編纂された『井伊家伝記』の桶狭間合戦のくだりに「信長が謀計をもって攻めかかってきた」とあり、その「謀計」が以上の策だともいえる。
ただし、あくまで可能性が広がったというだけで、まだまだ検証すべき事柄が多いこともまた事実である。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。