「日本のエジソン」じゃなかった!“元・発明家”平賀源内の「正体」の画像
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 “日本のエジソン”こと平賀源内。江戸時代にエレキテル(摩擦起電機)などを発明したとされる人物だ。

 友人で『解体新書』の訳者の一人である蘭方医の杉田玄白は、源内が安永八年(1779)一二月一八日に五二歳で没したのち、「あゝ非常の人。非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死すや」と墓碑に刻んだ。

「非常の人」というのは聞き慣れない言葉だが、「異才の人」と理解するのが適当ではないだろうか。

 しかも、死にざまも常識的な最期ではなかった。獄中で破は 傷風にかかって亡くなったからだ。投獄の理由は、なんと殺人。

 源内の数奇な人生を振り返りつつ、日本のエジソンと呼ばれる彼の実像と投獄の謎に迫ってみよう。

 源内の父は四国高松藩の下級藩士。足軽身分で領内志度浦にある米蔵の蔵番だった。源内は享保一三年(1728)、その志度浦で生まれ、一一歳でまず異才を発揮した。

「御神酒天神」という仕掛けものの掛け軸をこしらえて人々を驚かせたのだ。

 顔の部分を透明にし、背後の赤く塗った紙を動かすと、お酒を飲んだように天神様が赤くなるという仕掛けだった。

 その後にいったん彼は父の跡を継いで蔵番になるものの、本草学(薬学)への興味を捨て切れず、妹に婿養子を迎えて平賀家を継がせると江戸へ出て、当時、本草学の権威とされた田村藍水の門下となった。

 昌平坂学問所(東京都文京区)に寄宿して漢学や儒学も学び、三〇歳のときには江戸湯島(同)で薬品会を開くまでになった。

 主催者は師匠の藍水だが、発案したのは源内。主に薬種問屋から薬を中心にした物産を一堂に集めた催しで、これが日本初の物産展といわれている。

 二年後、今度は源内が主催者となり、より大規模な物産展を催した。このとき、大判の引札(広告用チラシ)を全国各地の関係先へ配ったアイデアも注目できる。

 こうして物産展の催しを通じ、彼の興味は本草から希少な物産へ広がり、新しい鉱物などを求めて武蔵国の両神山(埼玉県秩父市)へ入り、石綿(アスベスト)を発見した。

 石綿はその後、建材として利用され、今でこそ、その発がん性が問題視されているものの、源内はそれで布を編み、火浣布と名づけた。

 それは“火で浣(洗)う布”という意味。石綿の特徴を生かし、布が墨や油で汚れても火に投ずれば消えるというフレコミで、将軍や幕府高官に献上している。今でいう宣伝用パンフレットまで作り、火浣布を大々的に売り出そうとしたのだ。

 彼はその後、金山事業にものめり込み、さらには銀や鉄の採掘を始め、事業家として大金を投じるものの、特に鉄山事業は六〇〇両ほどをつぎこんだ結果、借金だけが残ったと言われる。

 事実、彼は事業の失敗で生活に窮し、自ら「貧家銭内」と称し、内職の櫛作りで生計を立てた時期もあった。

 事業家から貧しい内職職人への転落人生を味わった源内だが、彼にはもう一つ、戯げ作さく者しゃとしての顔があり、

「風来山人」などのペンネームで次々にユニークな作品を発表していった。

 特に『風来志道軒伝』は、主人公が巨人国や小人国を遍歴する内容で『ガリバー旅行記』(スィフト作)を参考にしたといわれる。

 そして、安永五年(1776)、四九歳になっていた彼は有名なエレキテル(ラテン語のelektricteitが訛ったもの)を発明した――とされてきた。

 これが世間の耳目を集め、頭痛の治療などに用いられたのは事実だが、厳密にいうと、長崎で壊れたエレキテルを手に入れ、七年の歳月をかけて修理復元したというのが正しい。

 先の火浣布も残念ながら、ひと足早くオランダで石綿製の手拭い(耐火織物)が完成していた。

 結果、現在の教科書からは発明家としての彼の業績が消え、安土桃山時代以降、途絶えていた西洋画の復活を試みた人物などとして紹介されている。

 確かに彼が長崎留学中に書いた『西洋夫人図』の襟の模様にはプロシア(ドイツ)由来の青色(プルシアンブルー)が使われ、日本で最も早く用いた例とされる。

 つまり、源内は日本のエジソンでも発明家でもなかったが、その生涯を通じ、新しいアイデアを積極的に取り入れる発見家、起業家であり、また、小説家と画家を兼ねたマルチな人物だったといえよう。

 その意味では、“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”というべきだ。

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