■設計図を盗んだ大工に激怒して殺害を実行!?
では最後に、彼はなぜ人を殺し、投獄されたのだろうか。
源内がかつて仕えていた高松藩家老が残した著作(『聞まゝの記』)によると、こうだ。
源内が親しくつき合う大名から別宅の修理を請け負ったときの話だ。同じく、その大名から修理を任された町人(大工)はあるとき、源内の設計図や見積もり書などの素晴らしさに驚いた。
そして、源内が彼と自邸で朝まで飲み明かした際、その町人が設計図などを盗んだと勘違いし、激高して斬りつけてしまう。
源内が冷静になって屋内を探してみると、設計図や見積書が手箱の内から出てきたものの、後悔先に立たず。切腹しようとしたが、そこへ門人らが駆けつけ、留められるうちに奉行所から役人がやって来て、お縄になったという。
ネタ元が高松藩の家老であるため、以上の話が通説になっているが、源内が牢死したとき、その家老はわずか六歳であるのが引っかかる。
それより、他のいくつかの史料は相手を米屋の息子などとしており、町名主の書留(メモ)などから以下の話が事実と考えられる。
源内の喧嘩の相手は秋田屋(米屋)の息子、久五郎と武家屋敷勤めの中間、丈右衛門の二人。やはり、源内が明け方近くになって自邸に泊まっていた二人を切りつけたというが、喧嘩の原因は不明。おそらく些細なことが始まりだったのだろう。
二人のうち、久五郎が死亡し、丈右衛門は傷を負いながらも命は取り留めたという。設計図などの盗難疑惑の話は源内がマルチな人間だったことから尾ひれがつき、それが史実としてまかり通った結果といえよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。