不世出の天才レスラー「胸が熱くなる」伝説の名勝負から「元気になる」名言 、そして週刊大衆本誌に遺した 「最後」の肉声まで!我が愛しのアントニオ猪木、永遠に燃える闘魂47連発の画像
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 昭和47年の新日本プロレス設立以降、どんなに険しい道でも笑って歩いた英雄の“47の偉大な足跡”がここに!

 10月2日、八甲田山を望む青森県十和田市の蔦温泉近くの小さな墓地。時折、小雨が降る中、仏花や線香を手にした人々が次々と訪れ、途切れる気配はない。

 ここには、アントニオ猪木が生前、自ら建てた墓がある。今年5月、猪木は墓の建立式と2019年に亡くなった最後の妻の納骨式のため、この地を訪れた。

 墓石に刻まれた「道」と「アントニオ猪木家」の文字。ファンは前日に、この世を去ったヒーローの死を悼み、足を運んでいた。

■闘病生活を動画で配信、最後までファンに“闘う姿”を見せ続けた

 1960年代から長きにわたり、人々を魅了し続けたアントニオ猪木が10月1日、心不全で帰らぬ人となった。79歳だった。

 近年、猪木は難病の「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い、自ら「人生最大の敵との闘い」と称する闘病生活を動画で配信。最後までファンに“闘う姿”を見せ続けた。

「何ごとにも立ち向かう心、“闘魂の原点は劣等感と怒りにあった”と生前、猪木は語っています。そこには、主にプロレスに対する世間の目と、1960年に日本プロレスで同日デビューした、ジャイアント馬場という終生のライバルの存在があった」(プロレス誌ベテラン記者)

■ジャイアント馬場に対抗した「ストロングスタイル」

 元『週刊プロレス』編集長のターザン山本氏は、「猪木さんのプロレスは、馬場さんへの対抗策として生まれた」と語る。

「馬場さんは60年代前半、米スポーツ界で最初に成功した日本人アスリート。いわば大谷翔平より60年早い“メジャーリーガー”。猪木さんは馬場さんのようにアメリカで成功はできなかったし、レスラーとして人並み外れて体が大きくはなかった。だから、同じことをやっていたら馬場さんに勝てないわけです」(前同)

 そこから生まれたのが、力道山流のケンカプロレスと、カール・ゴッチから学んだ英国流レスリング・テクニックを融合させた「ストロングスタイル」だった。

「馬場さんのプロレスを否定するために、武道精神や真剣勝負という価値観を導入した。そうして、日本独自のストロングスタイルを作り上げたんです」(前同)

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