■ロシアは吉宗の死後に南下の姿勢を明確化!

 話は元禄八年(1695)、伝兵衛という日本人商人が船で難破し、カムチャッカ半島の南岸に漂着したことに始まる。

 彼はコサック隊長の一人にロシアの首都サンクト・ペテルブルグへ連れて行かれ、ピョートル大帝に謁見した。大帝は伝兵衛から日本の情報を得て、首都に日本語学校を開設し、伝兵衛をそこの日本語教師とした。

 彼はロシア人に初めて日本語を教えた人物とされる。

 大帝は部下に東方への探検を命じ、やがて、シュパンベルグ大尉らがカムチャッカと日本を結ぶ航路を発見。彼が艦隊を率いて元文四年、日本近海に現れたのだ。

 彼らの目的はあくまで日本近海の調査であって、通商を求めたわけではなかった。したがって、そのまま帰港していったが、日本が後に「列強」と呼ばれる西洋諸国(オランダを除く)と初めて接触したのがこの「元文の黒船来航」だったといえる。

 吉宗はこの黒船来航の報に接し、沿岸地域の諸大名に警戒を呼び掛けた。ただし、それは「今後、異国船が上陸した場合には乗組員を逮捕すべきだが、逃げようとしたら一両人を捕らえるだけで全員を逮捕する必要ない」という寛大なものだった。

 ところが、吉宗の死後、ロシアは南下の姿勢を明確に示し、寛政四年(1792)、ロシアのエカテリーナ二世の使節ラクスマンが根室に来航。

 以降、幕府は通商を断る理由として「鎖国」という言葉を使い、幕府に「鎖国法」という体系的な法令が存在しないにもかかわらず、「鎖国は寛永以来の祖法」であると理屈づけるようになる。

 つまり鎖国は、旧弊にとらわれた幕府官僚が通商を断るための方便だったともいえる。

 しかし、その方便も武力を前面に押し出すペリーには通用しなかったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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