■急逝したのは事実だが死因は「脚気霍乱」!?
以上の事実をどう理解すべきか。まず伊賀の方らが政村を執権に就け、娘婿を将軍に据えるためには、泰時が鎌倉入りするまでに行動を起こす必要があるものの、『吾妻鏡』には具体的な動きが記載されていない。
当時、正室には家の財産を管理する権限があった。
そのため、政子や泰時が夫の死後も執権邸に住み続ける伊賀の方を一方的に警戒したのではなかろうか。
それが用心深い泰時の行動に繋がり、万が一、彼女たちに謀反の動きがあっても先んじられるように軍勢を伴って鎌倉入りしたと考えられる。
むろん、この事件に北条氏への対抗意識を燃やす三浦義村の野心が絡み、実際に彼が謀叛があったことを匂わせているため、彼女たちがまったくの「シロ」だったとはいえない。
しかし逆に「クロ」とも断定できず、筆者は具体的な動きが『吾妻鏡』に記載されていないため、「冤罪」の疑いがあると踏んでいる。
だとすると、そもそも伊賀の方が夫を毒殺する動機が失われる。
それでは、尊長が六波羅探題の役人に漏らした義時毒殺の話はどう解釈したらいいのだろうか。
まず尊長と将軍候補に擬せられた実雅とは兄弟といっても腹違い。
しかも、三〇歳の年の差があった。兄の尊長は主に京、弟の実雅は鎌倉にいて接点が見つからず、本当に毒殺計画があったとしても尊長の耳に入っていたとは考えにくい。
しかも、承久の乱で尊長は上皇方の中心人物であって、実雅は弟とはいえ、敵方の幕府側に属している。
尊長が幕府に捕らえられ、死に間際に伊賀一族の犯行をちらつかせたのは、承久の乱当時、京都守護職だった伊賀光季(伊賀の方と光宗の兄)が上皇方の誘いに乗らなかった恨みもあり、自暴自棄に陥って、あらぬ暴言を吐いたともいえよう。
義時が急逝だったのは事実だが、死因は脚気霍乱だったとされる。伊賀の方が夫殺しの毒婦だったという見方も冤罪といえよう。