織田信長「比叡山延暦寺焼き討ち」「悪魔の所業に重大疑惑」浮上中!の画像
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 その所業、天魔(仏道の修行を妨げる魔王)のごとく――と、後世まで非難される織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち。

 彼の一代記『信長公記』によると、元亀二年(1571)九月、織田勢は「雲霞のごとく(比叡山を)焼き払い、灰燼の地となすこと哀れなり」、すなわち全山ことごとく焼き払ったとある。

 さらには「高僧」の他、「美女・小童、その数を知らず召し捕らえ」とされ、結果、「数千の屍」を晒すことになったという。

 つまり、信長は天下に名高い高僧や女・子どもまで殺したのだ。『信長公記』がいうように、俗世にまみれた「悪僧(僧兵ら)」については「是非に及ばず(仕方がない)」としても、確かに天魔」の所業といえる。

 しかし、比叡山の考古学調査が進むにつれ、信長が全山ことごとく焼き払ったという通説に疑問が投げかけられることになった。

 この事件を再検証してみよう。

 比叡山延暦寺では東塔、西塔、横川という三つのエリアで、それぞれに中心伽が藍となる根本中堂や講堂をはじめ、現存する主な建物の修理に伴って考古学調査が行われてきた。

 その調査員の一人、兼康保明氏が発表した論文(「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」/『滋賀考古学論叢』第一集)によると、根本中堂と講堂を除き、調査で確認された焼土層は信長の時代のものと特定できず、それ以前の平安時代から南北朝時代のものか、あるいは江戸時代のものだとみられることが判明。

 つまり、織田勢の放火によって焼き落ちたと確実にいえるのは根本中堂と講堂だけ。『信長公記』が全山ことごとく焼き払ったという記述と明らかに矛盾するのだ。『信長公記』の史料価値は高いとされているだけに、とても嘘偽りを書いていると思えない。

 また、山科言継という公卿の日記にも「大講堂、(根本)中堂、谷々の伽藍ことごとくこれを放火す」とあり、やはり考古学調査の結果と矛盾しているのだ。

 その真相を探るべく、まず焼き打ちに至る流れを確認しておこう。

 元亀元年(1570)八月、信長に抵抗する三好三人衆が大坂の野田・福島城(大阪市福島区)を拠点に蜂起し、信長はすかさず摂津入り。両城へ猛攻を加えたが、九月に入って大坂御坊(のちの大坂城)に拠よ る本願寺が包囲網に加わった。

 本願寺は当時、かなりの武力を擁していただけに、信長は大坂から動けなくなった。この隙に乗じ、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政勢が三万の大軍で南近江の志賀郡へ進軍。そこには信長が築いた宇佐山城(滋賀県大津市)があり、森可成(信長の小姓・森乱丸の父)が城主についていた。

 信長は可成どころか、弟・信治まで戦死させ、さらに朝倉、浅井勢は南近江から京を窺う姿勢を見せた。

 信長はこの近江の敵を重視し、九月二三日、大坂からの撤退を決意し、翌日には下坂本(大津市)へ陣を張った。

 これで南近江における織田勢と朝倉、浅井勢との形勢は逆転するかに見えたが、朝倉、浅井勢は比叡山へ逃げ込んでしまう。

 信長にしたら、敵は卑怯にも自身の留守を狙って京近くまで攻め込み、信頼する家臣(可成)と弟の命を奪った仇敵。憎んでも憎みきれない信長は、山上に逃げ込んだ彼らの糧道を断とうとした。

 しかし、比叡山延暦寺が朝倉、浅井勢を庇護したのだ。さらには、甲賀に逃れていた仇敵の六角義賢(南近江の観音寺城主だった武将)までが兵を挙げた。大津の信長の周囲はいわば敵だらけ。こうして信長は窮地に陥った。

 そこで彼は各勢力を個別撃破しようと考えた。そのため、最大勢力といえる朝倉、浅井勢を支援する比叡山に対して、横領した山門領(延暦寺の荘園)をすべて還付すると、まずは“飴”で誘い、次いでこの申し出を断ったら、比叡山山上の堂塔を

「ことごとく焼き払う」(『信長公記』)と、“鞭”で脅した。

 しかし、比叡山はこの申し出を無視したのだ。結局、朝倉、浅井勢との対陣は三か月の長きにわたり、信長は、越前の朝倉が雪に閉ざされて動けなくなるころを見計らい、当時の室町幕府将軍足利義昭と関白二条晴良を動かし、なんとか朝倉、浅井勢と和睦に持ち込んだ。

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