■主要伽藍に狙いを定め焼き払わせたとの説も
こうして危機は解消されたが、比叡山延暦寺への恨みは残った。したがって、信長の性格を考えると、予告通り、全山ことごとく焼き払ったとしたとしても不思議ではない。
その一方で考古学調査との矛盾を取り除くための手掛かりがないわけではない。奈良興福寺の僧・多聞院英俊の書いた元亀元年(1570)三月一九日付の日記に
「僧衆(学僧や僧兵たち)は大旨、(麓の)坂本に下りて」とあるからだ。
英俊自身、比叡山や麓の坂本を巡り、見分しているから確かな情報といえる。ここで彼は、比叡山の僧らの多くは山上におらず、麓に下って暮らしていると書いているのだ。
一方、さきほどの言継の日記から織田勢が三月一二日に上坂本から焼き打ちを始めたことが分かる。
上坂本には比叡山の僧たちが住んでいたから、信長は彼ら(特に僧兵)を攻撃対象にしていたわけだ。
信長の焼き討ちの目的は伽藍を焼くことではなく、僧兵らを根絶やしにすることだったといえる。
もちろん、上坂本には僧らを世話する一般の人々や、その家族も住んでいた。『信長公記』をよく読むと、彼らの他、僧たちも履物もつけず、裸足で山へ逃げ込んだとある。逃げこむ先としては大人数を収容できる根本中堂や講堂が最も無難。そこで信長は僧兵らの避難先である建物にターゲットを絞って焼き払い、その巻き添えで多くの老若男女や学僧が犠牲になったのではなかろうか。
あまりに悲惨な結末が、全山ことごとく焼き払われたという誤解に繋がったのかもしれない。
つまり、信長はただ怒りにまかせて堂塔すべてを焼き打ちしたのではなく、僧兵らが籠もる主要な伽藍に狙いを定め、焼き払わせたという仮説が成り立つのだ。
ただし、考古学調査といっても、全山すべてを網羅したわけでない。したがって確定的なことはいえないが、通説でいう比叡山焼き打ち事件を見直す必要が出てきたのは間違いあるまい。