朝鮮水軍が日本の大船団を撃破?慶長の役「鳴梁海戦を徹底大検証」の画像
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 豊臣秀吉に二回にわたって国土を蹂躙された韓国で、日本水軍(海軍)に連戦連勝した李舜臣は国民的英雄。

 その韓国では「李舜臣がわずか一三隻の船で一三三隻の日本側の船を撃破し、敵将の一人を討ち取った」と伝わり、その鳴梁海戦と呼ばれる一戦の持ち上げ方は、日露戦争(1904~05年)で大日本帝国海軍がロシアのバルチック艦隊に大勝利した「日本海海戦」に匹敵する。

 一方、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では陸地での合戦ばかりが注目され、海戦については意外に知られていないことが多い。

 そこで、朝鮮出兵の際の海戦の戦況を改めて確認するとともに、鳴梁海戦で本当に日本側が大敗したのかどうかを検証してみよう。

 まずは文禄元年(1592)四月一二日、小西行長が七〇〇艘の兵船で朝鮮半島南東部に当たる慶尚南道(行政区の一つ)の港湾都市・釜山に上陸したが、このとき、ほとんど無抵抗だった。なぜなら、慶尚道の水軍を率いる司令官が戦わずして逃亡したからだ。そのため、小西軍に続き、後続軍も難なく上陸し、日本軍は五月三日、早くも李氏朝鮮の首都・漢城を陥落させた。

 その後も北へ進軍を続け、平壌まで落とした日本軍だが、そこで快進撃が止まる。明(当時の中国王朝)が参戦した他、陸上の補給路が伸びて前線の将兵らへの食糧などの補給が途絶えがちになったからだ。

 補給が途絶えた一因は制海権を朝鮮水軍に握られ、日本からの補給がうまくいかなくなったことにもある。開戦当時、朝鮮半島南西部の全羅南道水軍左水師(全羅南道の水軍司令官)の地位にあった李舜臣は、逃亡した慶尚道水軍の司令官の一人、元均からの援軍要請を受けていた。

 李舜臣は自身の持ち場(全羅道)を離れ、越境することにためらいはあったものの、未曾有の国難を前に決断。全羅道の水軍を率い、日本側が寄港する釜山を目指したのだ。

 以降、慶尚道沿岸を中心に大きな海戦が一〇回、行われるが、李舜臣率いる水軍がほぼ勝利した。こうして朝鮮水軍が海域の制海権を握ったのだ。彼の勝因はどこにあったのか。

 それは、日朝両水軍の戦術と船の構造の違いにあった。まず日本側の戦い方は、船を敵船に漕ぎ寄せて乗り移る白兵戦が主流だった。

 これに対して、李舜臣は敵船との距離を保ちつつ、弓矢や火砲による攻撃を行った。

 しかも、朝鮮水軍には亀甲船と呼ばれる秘密兵器があった。亀が伏せたように見えることからその名がついた船は、まず敵の侵入を防ぐために甲板に薄い鉄板をかぶせて鉄釘で留め、その鉄板一面に錐刀(先端が尖った小刀)を刺していたという。仮に敵兵が乗り込んできても、その錐刀の餌食になるわけだ。

 また、前方と後方の他、左右側面にも六個の銃口を設け、漕ぎ寄せる敵船に全方向から攻撃できる仕掛けだ。

 ともあれ、「唐入り」、すなわち明への侵略を最終目的にした秀吉の一回目の朝鮮出兵はこうして失敗。いったん講和が成立するものの、その内容に承服しなかった秀吉が再征を決意し、慶長の役が勃発した。

 秀吉の狙いは、慶尚道に続き、全羅道を実効支配(占領)すること。このため日本軍は慶尚道から西の全羅道に侵入。一方、朝鮮水軍は、やはり全羅南道沿岸部へ進もうとしていた日本水軍に先制攻撃を仕掛けた。

 だが、慶長二年(1597)七月一五日、釜山南西の巨済島付近の海域で逆に朝鮮水軍は大敗。

 ただし、このときの水軍司令官(水軍統制使)は、慶長の役で李舜臣に援助を乞うた元均だった。

 李舜臣はそれまでの活躍を彼に妬まれ、その讒言によって一兵卒に落とされていたのだ。

 この海戦では元均らの司令官が相次いで戦死し、朝鮮水軍も船のほとんどを失った。文禄の役の敗戦を参考に、日本軍も船に大砲を載せるなどして対策を練った結果だとされる。そこで李舜臣が水軍統制使に再任され、全羅南道沿岸の最西端まで進んでいた日本水軍を追った。

 そして、慶長二年九月一六日、半島南西端と珍島の間の狭い海域(そこを鳴梁という)で両軍が衝突した。それでは、『乱中日記』という李舜臣の日記を基に通説を確認しておこう。

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