■日本水軍はあくまでも一時的に退いただけ!?

 その日、藤堂高虎を司令官とする日本水軍一三三隻が鳴梁の海域に入ってくると、朝鮮側の諸将は「衆寡敵せず」と考え、戦いを回避しようとしたが、李舜臣の乗る船が臆せず火砲を乱射しながら突き進むと、やがて他の船も従い出した。

 その中の一隻に日本側の船三隻が群がり、そこへ李舜臣の船が近づいて弓矢を乱射すると、日本側の三隻の船は沈み、兵たちは海に浮かんだ。このとき、降伏していた日本兵の一人が自軍の大将の一人を見つけた。

 李舜臣は部下に命じ、鉤を使ってその大将を船首に吊り上げさせ、討ち取らせた。その大将が村上海賊の生き残り、来島通総であった。

 こうして朝鮮水軍は一斉に勝どきを挙げ、たちまちのうちに日本側の船三一隻を撃破。日本水軍は逃げ、海戦は終わった。

 以上の話は日本側の史料(『高山公(藤堂高虎)実録』)などでも確認できるから、ほぼ事実だといえる。

 この海戦に亀甲船が使われたかは不明だが、朝鮮水軍の勝因は船ではなく、潮流の読みが難しい海域で地の利があったからだと考えられる。

 確かに海戦で日本側は敗れたが、海戦の五日後の『乱中日記』に「(朝鮮水軍が)古群山島に到着する」とあるのが気にかかる。

 この島の呼称は現在では変わっているものの、韓国全羅北道群山市にある。つまり、日本側は敗れたとはいえ、一〇〇隻の艦隊を残し、朝鮮側はわずか一〇数隻。これではとても半島南岸の制海権を維持できないと考え、北へ逃避したのだ。

 つまり、日本水軍は一時的に退いたに過ぎず、戦略的に見ると、朝鮮水軍を半島南岸から駆逐した日本側の勝利であり、結果、「慶尚道・全羅道の南部海岸は、ほぼ日本側の制圧下に置かれることになった」(小川隆章著「鳴梁海戦に関する文献総覧:海戦の実相を求めて」/『環太平洋大学研究紀要』19号)という。なお、李舜臣はこの海戦の翌年、秀吉の死によって撤退する日本水軍を追って勝利するが、その海戦で命を落とした。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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