■八郎の動きを暗殺者はなぜ知っていたのか!?

 幕府は慌てて浪士組を江戸へ帰還させようとするが、実はそれも八郎の策の内だった。彼は浪士組を使い、江戸で横浜の外国人居留地を焼き討ちしようとしたのである。

 これを知った近藤勇らは八郎の行き先を知り、四条堀川で待ち伏せして斬ろうとしたが、幕臣の山岡が同行していたため未遂に終わった。

 近藤らは京に残り、新選組として尊攘派の志士を斬りまくる一方、八郎は浪士組とともに京を去った。

 八郎は三月二八日に江戸に到着。彼の計画は「浪士二五〇人ほどで横浜の外国人居留地を焼き討ちにしたあと京へのぼり、長州とともに将軍のいる二条城へ討ち入る」(『官武通記』)ものだったという。事実なら、もはやこれは倒幕計画といえる。

 山岡の屋敷に居候していた八郎は殺害される当日の四月一二日、友人の出羽上山藩士・金子与三郎に呼ばれたため、風邪気味のところ、無理を押して出かけた。

 そして、麻布一ノ橋(港区)の門前にあった上山藩藩邸からの帰路、幕命を受けた佐々木らに殺された。

 状況は史料によって若干、異なるものの、顔見知りの佐々木一派の者に声を掛けられ、挨拶のために陣笠を取った隙をとらえ、背後から佐々木が斬りつけてきたというところだろうか。ではなぜ、暗殺者らは八郎が麻布へ来るのを知っていたのか。

 むろん、後をつけていた可能性もある。だが、前述した金子が攘夷計画に加わるといって八郎を誘き出したという説もある。それなら近藤らに狙われたときと同じく、待ち伏せされたことになる。

 いずれにせよ、八郎が殺害されたのち、幕府の威勢は一時、回復した。

 しかし、その後、龍馬が関係した薩長の盟約によって幕府の命運は絶たれることになるのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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