明治維新の火つけ役となった策士“幕末の志士”清河八郎の生涯!の画像
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 幕末の動乱は「清河八郎に始まり、坂本龍馬に終わる」といわれる。

 龍馬は幕末動乱の事実上の幕引きとなる大政奉還(1868年)に関係し、八郎はそこへ至る動乱の中心にいた。二人とも暗殺によって生涯を終え、その下手人が同じ人物(後述)という偶然も歴史の妙だろうか。

 時代を動かすには、まず世の中を引っ掻き回す役割が求められ、八郎はまさに、その役目を担うために生まれてきた人物といえる。

 彼は幕府を手玉に取る策を弄し、幕府の恨みを買って惨殺された。その暗殺事件には、いまだに解明されない謎もつきまとう。波乱に富んだ八郎の生涯を振り返ってみた。

 彼の本名は斎藤正明。庄内藩領の清川村(山形県庄内町)の郷士(武士として処遇される農村出身者)ながら、彼が長男として生まれた斎藤家は酒造業などを営む当時の富裕層。村を訪れた文人らをもてなす「楽水楼」という迎賓館施設まであった。

 八郎はそこに来る文人らの影響もあり、大志を抱いて一八歳のときに村を出奔。清川八郎と改名(のち清河八郎)、尊王攘夷志士のスタートを切った。

 江戸で安積艮斎ら当代きっての学者に学び、当時の最高学府である昌平黌に通い、さらに神田お玉が池(千代田区)の千葉道場で剣術の腕を磨いた。そのお玉が池の道場では、幕臣の山岡鉄舟と同門になっている。

 やがて八郎は実家の援助もあって江戸で塾を開き、「文武指南所」と命名。当時、学問と武術を同時に教える塾はなかったから話題になり、志を持った者らが集まってきた。

 志士たちが徒党を組むことを恐れる幕府が「文武指南所」を警戒する一方、八郎はむしろ逆に「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という覚悟を決め、文久元年(1861)、三二歳のときに塾生らを中心に攘夷決行のための秘密結社「虎尾の会」を結成した。

 まず八郎は横浜の外国人居留地の焼き討ちを計画。当時、異人らが相次いで斬られる事件が起きていたため、「虎尾の会」も幕府に目をつけられていた。

 その年の五月二〇日、両国の料亭『万八楼』で書画会の催しがあり、書画骨董好きな父親に贈るつもりだったのか、八郎が参加した帰り道のこと。町人風情の男がぶつかってきたので八郎が咎め立てると、男がなおも無礼を働いたので斬り殺した。

 奉行所などへ届け出れば無礼討ちで処理されたかもしれないのに、なぜか八郎は届け出ずに逃げ、罪を背負った。一説によると、八郎に殺された町人風情の男は幕府の手先で、奉行所が届け出た八郎の身柄を拘束し、外国人居留地焼き討ち計画を吐かせるための罠だったともいわれる。

 しかし、八郎はこれで息を潜めるどころか、逆に九州で真木和泉(久留米の水天宮神官)ら有名な尊攘志士らと盛んに交流し、翌文久二年四月に薩摩の事実上の藩主、島津久光が一〇〇〇の藩兵を率いて上洛した際、それが攘夷決行のためだと考え、京都所司代殺害を企てた。

 ところが、久光が尊攘派に与しなかったため、八郎は新たな策を弄した。幕臣で千葉道場同門の山岡を通じ、幕府政治総裁職の松平春嶽に上申書を提出。将軍警護のための浪士組結成を幕府に認めさせたのだ。

 その頃、幕府は攘夷を煽って政局の中心にした長州藩と対抗するため、攘夷派に転向。その実行のために将軍徳川家い え茂も ちの上洛も決定していた。

 そうして幕府は世間に攘夷の姿勢を示すため、八郎の罪を許し、彼の献策に乗ったのである。

 また、浪士問題に頭を悩ませていたこともあり、幕府には、毒(八郎)をもって毒(浪士)を制すという思惑もあったのだろう。

 文久三年(1863)二月五日、小石川の伝通院(文京区)に二三五名もの浪士が集まった。

 その中には近藤勇らの他、のちに龍馬を暗殺する佐々木只三郎の姿もあった。佐々木が直に手を下したわけではないが、当時、龍馬を斬った見廻組(幕臣による京都の治安維持組織)を率いていたのが彼だ。

 ところで、前述した通り、浪士組には攘夷のために上洛する将軍家茂を警護する役割があったわけだが、浪士たちが京の壬生村に到着した早々、朝廷側に「われらは幕府のお召しに応じたものですが、禄(報酬)を受けておらず、ひたすら(天皇のために)尊攘の大義を実現したい」旨を建白。ただちに受け入れられた。

 つまり八郎は将軍警護のために幕府に浪士を集めさせ、それをそっくり天皇のための兵、つまり、攘夷決行のための兵に作り直したのだ。

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