■遷都から150年後に過疎と過密地域に二分
平安京はどのように造営されたか
平安京は東に賀茂川、西に桂川に挟まれた平地に造営された。およそ東西が四・五キロで南北が五・二キロ。
その中心となるのが道幅八四メートルの朱雀大路だ。大内裏南の朱雀門から南へまっすぐ伸び、平安京そのものの出入口である羅城門へと通じる。
平安京造営の基準となる街路である朱雀大路を平地のどこに線引きするのか。まずは、そのことから都造りは始まったといえる。
では、どうやって線引きしたのか。京都の北に標高一〇〇メートルほどの小高い山があり、船岡山と呼ばれる。
その山頂から南へほぼまっすぐに線引きした街路が朱雀大路。つまり、船岡山こそが平安京の起点といえる。
なお、朱雀大路は現在の千本通りに当たり、現京都市街を南北に貫く中心街路の烏丸通りより、かなり西に位置していた。
現在の堀川が賀茂川だったのか?
現在の京都市街のほぼ中央部を南北に流れる堀川(運河)の川筋はもともとの賀茂川の流路だったとされてきた。平安京造営の際、大工事の末にそれを南東に曲げ、現在の流れにしたというのが通説だった。
ところが、一九七〇年代の半ばから始まった市営地下鉄の工事の際に岩盤の尾根が見つかり、賀茂川が今の堀川の場所を流れていたなら、その尾根を乗り越えねばならず、現在、つけ替え説は否定されている。
その後の平安京
一〇世紀半ば頃、学者の慶滋保胤が書いた随筆『池亭記』から、朱雀大路の西、すなわち右京が廃れ、逆に東の左京が栄えて、特に四条より北側に貴族の家が立ち並んでいたことが分かる。遷都後一五〇年ほどで、平安京が過疎と過密の両地域に二分されてしまったのだ。
なお、天皇が住む内裏は何度も火災に見舞われ、鎌倉時代に炎上したのを機に再建されなくなり、天皇は里内裏(仮の内裏のことで摂関家の邸宅などがあてられた)に住んだ。
南北朝時代の終わりに里内裏だったところが御所となり、明治天皇が東京へ遷るまで五〇〇年近く続いた。