■変の真相は通説と違い一族間の政治抗争か!?
高明の左遷後、右大臣だった藤原師尹が代わって左大臣に昇進。その年の八月に冷泉天皇が守平親王に譲位し、その円融天皇の摂政になったのが太政大臣の藤原実頼。彼は小野宮という皇族の邸を買い取り、小野宮流という有職故実の祖でもあった。
一方、例の三兄弟の父を師輔といい、摂政になった実頼の弟で左大臣に昇進した師尹の兄だった。
師輔は平安京の九条に邸があり、その一族を九条流と呼んで、彼もまた有職故実の祖となった。この九条流と小野宮流とは互いに反目していたことが史料から読み取れる。
特に小野宮流の実頼は、冷泉天皇の即位で外戚となった九条流の師輔を警戒した。そして、師輔の娘は高明に嫁いでいた。通説では師輔が亡くなり、高明が孤立して三兄弟との確執が生まれたとするが、その確証はなく、むしろ、後に高明の娘が道真に嫁ぐように、九条流藤原氏と協力関係にあったと考えられる。
つまり、小野宮流の実頼が、反目する九条流の勢力を削ぐために弟の師尹を誘い、九条流と協力関係にあった高明の失脚を図ったという構図が見えてくる。
だとすると、安和の変の原因は藤原一族間(小野宮流vs九条流)の政治抗争にあり、高明が九条流と縁戚関係にあったがために巻き添えを食ったことになろう。
結果、藤原一族間の抗争は、実頼と師尹が相次いで没し、九条流に軍配が上がった。そうして九条流が摂関家の嫡流となり、道長の時代に全盛期を迎えるのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。