■重臣に一任することで政治的安定を優先か!?

 その日の夕刻、義持が危篤に陥り、重臣らは神前でくじを引き、翌日の正月一八日に義持が死去したあとに開封して、彼のすぐ下の弟である義教が将軍に決まった。

 くじ引きで決めた理由として、『建内記』(内大臣万里小路時房日記)には、三回とも、くじは「義円(義教の出家名でその後還俗)」と出たことから、くじはイカサマだったことを挙げる。つまり、神意を借りて諸大名らを心服させるためにイカサマを仕組んだというのだ。

 しかし、『建内記』の内容の真偽が問われ、今ではイカサマ説は否定されている。

 では、義持の真意はどこにあったのか。謎を解く手掛かりは、彼が家督を継いだ頃に隠されている。

 当時、家督を弟の義嗣と争い、伏見宮貞成親王の記した『椿葉記』によると、当時の管領斯波義将の「おしはからい」で義持の相続が決定したとある。つまり、幕府最大の実力者に推されて家督を継いだ義持は、在職中に幕府の有力守護家の邸へ御お成なりを繰り返し、重臣らとの協調関係を築きながら政治を行ってきたのだ。

 父の政策をことごとく覆したように映るものの、朝廷との関係や日明貿易を巡る政策を否定したのは、それが義将ら重臣の意思だったからだとされる。

 次の将軍が嫡男なら重臣らも異存はないにせよ、以上のような状況下で兄弟の誰かとなると、意に沿わない者も現れるはず。

 それより義持は、重臣らに一任することによる政治的安定を優先したのだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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