敵の目を欺くために大将などの身代わりとなる武者を「影武者」という。有名なのは武田信玄の弟信繁が兄の影武者だったという話だ。
その信玄に三方ヶ原(静岡県浜松市)の合戦で敗れた徳川家康にも影武者がいたという。その名は夏目広次(吉信ともいう)。NHK大河ドラマ『どうする家康』では甲本雅裕が演じている。
影武者として家康に近侍していたわけではないものの、前述した三方ヶ原の合戦で徳川勢が大敗した際、「家康の影武者として討ち死にした」という話が広く伝わっている。
そもそも三方ヶ原で、どうして家康は武田勢相手に大敗してしまったのか。影武者夏目広次の活躍とともにお伝えしよう。
三方ヶ原の合戦の大敗について、通説はこう伝えている。元亀三年(1572)、まだまだ血気盛んな家康が三一歳の冬のこと。
一二月二二日、上洛を目指す武田の大軍が家康の居城浜松城の北にある三方ヶ原を行軍し、追分付近まで達した。
そこから南へ下れば浜松城。籠城の覚悟を決めていた城内は緊迫するが、信玄は追分で道を北に転じた。浜松城を無視し、武田勢は家康の居城を素通りしてしまったのだ。
そこで家康、「信玄、われを蔑にするごとくなり。出て一戦して勝負を決せん」(『武徳大成記』)と怒りを露わにする。いかに敵が戦国最強といわれる武田軍でも、無視されたまま指をくわえて見過ごしては武門の名折れというわけだ。
軍目付の鳥居忠廣に敵陣近くまで物見(偵察)を命じるが、忠廣が「敵は思いのほか大勢。段々に備えをもうけ、いかにも堅固」(『改正三河後風土記』)と報告すると、家康は「汝はひごろ武功の者なれば大切の役(偵察)を申しつけたのに、今日敵の大軍を見て臆病神に取りつかれたるか!」(『同』)と激怒し、他の家臣らが制止するのも聞かず、匹夫の勇に駆られて出陣を命じた。
そうして家臣の不安が的中し、大惨敗を喫したとされるが、前述した『武徳大成記』は、江戸幕府創業の沿革を記録するため、幕府自身が編集に携わった史料。幕府はこの大惨敗を家康の“若気の至り”のせいにしたかったのだろう。
やがて家康はそれ以来、無茶はせず、「なかぬならなくまで待とうホトトギス」(江戸時代の随筆『甲子夜話』などに掲載)の精神で天下を獲ったという教訓が出来上がった。
それでは史実はどうだったのか。通説は織田信長からの援軍を含めて徳川勢八〇〇〇余、武田勢二万余とする。ところが、歴史学者の平山優氏は各史料を分析し、徳川方を一万一五〇〇余、武田勢二万余とし、両軍の兵力を通説より少なく見積もった(『新説 家康と三方原合戦』)。
家康はこのとき「鶴翼の陣」を採用したことが史料で確認できるが、大軍を相手にした場合、中央部分の本隊が手薄になり、相手に攻め込まれやすい欠点があったため、信じられない陣形の選択ミスを犯したともいわれてきた。
兵力差が通説よりも少なかったとはいえ、やはり大軍相手に鶴翼の陣で挑むのは無謀だったといえる。結果として、そのことが最大の敗因となったからだ。
一方、『当代記』というほぼ同時代の史料によると、徳川方から一〇騎、二〇騎と物見と称して先駆けする家臣が相次ぎ、家康が呼び戻そうとするが、収拾がつかなくなったことが分かる。
これだと通説とはまるで逆。家康に戦意はなく、逆にいきり立つ家臣らを収拾したのは家康のほうだったといえる。
さらに『信長公記』によると、信玄が陣夫役の百姓らと考えられる三〇〇名の部隊に、追ってくる徳川の兵へ石い し礫つ ぶてを投げさせたという。
つまり、徳川勢は百姓に石を投げられたわけだ。侮辱されたと思った徳川の兵らは激怒したはずだ。
ここからは信玄の視点で合戦を見てみよう。彼の狙いは浜名湖の要衝堀江(浜松市)にあり、わざわざ浜松城を囲んで落城させる手間を省きたかったのだろう。だが、追尾してくる徳川勢を見て勝てると踏み、彼らを石礫部隊で挑発したとみられる。
家康にとっては予期せぬ形で合戦が始まったわけだ。もはや重厚な陣形を敷く状況ではなかった。
そこで不利と分かっていても鶴翼の陣形を取るしかなく、その弱点である「中筋(軍勢の中央)を切りたてられ」(『信長公記』)、軍勢の左翼と右翼が分断されて大敗するのだ。