■もし広次がいなければ家康の活躍はなかった

 そこで、影武者夏目広次の登場である。『寛永諸家系図伝』から話を拾ってみよう。

 広次は家康に「我れが敵兵を防いで討ち死にする覚悟」と伝え、家康が跨る馬を浜松城の方角へ向かせ、刀の峰(刀身の背)で馬の三頭(尻)を叩いて駆けさせた。

 敵兵は一斉に家康の後を追ったが、広次はその与力の武士二五人(一説には三五人)とともにその敵兵の間へ割って入り、命と引き換えに無事、家康を逃したとある。

 別の史料では「われこそは家康なり」と呼ばわって敵を引きつけたともいう(『四戦紀聞』ほか)。

 その広次の夏目家は、鎌倉時代に信濃国伊奈郡夏目村(長野県伊那市)の地頭だった。明治の文豪夏目漱石の先祖がこの一族だというが、確証はない。その後、一族が三河に移住し、一五代を経て吉久という武士に至り、彼は松平清康、広忠という家康の祖父と父二代に仕えた。永正一五年(1518)、その吉久の子として生まれたのが広次だ。

 彼は永禄五年(1564)、家康が八幡村城(愛知県豊川市)を攻めて総崩れになった際にも殿しんがり(退却する際の最後尾の部隊)に属し、奮戦した。

 その後、一向一揆に加わり、家康と対立して生け捕りにされるが、助命が認められ、以来、譜代の臣として活躍するのだ。その広次には五男までいて、その多くが父と前後して亡くなり、夏目家は絶えた。

 ところが、慶長一〇年(1605)、すでに隠居していた家康が、喧嘩の末に同僚を殺害して出奔していた広次の三男(信次)らを招き、「汝らの父がいなかったら今日の栄はなかったであろう」と感謝し、信次を召し抱えたという伝承が残る。

 広次の活躍は信頼できる『信長公記』などに記載されないが、そもそも影武者とはそのように表舞台に登場しない存在といえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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