天正一〇年(1582)六月二日の早朝、京の本能寺に宿泊していた織田信長が明智光秀の軍勢に襲われて落命したとき、徳川家康は泉州堺(大阪府堺市)にいた。信長の誘いで上方を巡り、この日、家康が堺から京へ発つ予定だったことは『天正日記』という一次史料で確認できる。
その後、家康と昵懇な京の豪商茶屋四郎次郎(初代清延)が書き留めた記録によると、逆に京へ向かう家康主従一行と河内の飯盛山(大阪府四条畷市・大東市)付近で会い、信長が討たれた事実を告げるのだ。
また、通説では、そのあと家康は信長の死を知って絶望し、京の知恩院(浄土宗の総本山)で自害しようとしたという。
実は家康がまだ今川義元の人質だった時代、その義元が信長に桶狭間(愛知県豊明市及び周辺一帯)で討たれた際にも、岡崎(同岡崎市)にある浄土宗の大樹寺(家康の先祖の菩提寺)で自害しようとしたという伝承がある。
この際は寺の住職登誉上人に諭され、また、本能寺の変の際には重臣の本多忠勝になだめられ、自害を思いとどまった。
このように通説や伝承では世をはかなんで二度までも自害しようとした家康だが、とりわけ河内の飯盛山付近で自害を思いとどまったあとの行動は素早かった。伊賀越えを経て本国三河への帰還を決意したのだ。
しかし、そのルートは道険しく、かつ、わずかな供しか引き連れておらず、明智勢の追っ手のみならず、落ち武者狩りのような連中も家康の首を狙っている。
よって「御生涯御艱難の第一」(『徳川実紀』)とまでいわれる難路となる。では、この生涯の最大の窮地を前に家康はどうしたか。
そのとき彼がとった作戦が今回のテーマ。実は史料上の矛盾点から、明智勢らの目を欺くために家康が替え玉を立てた可能性がうっすらながら浮上してくるのだ。
家康一行が上方から伊賀へ至ったとされるルートは二通りの候補があり、ここでは仮にそれぞれ北廻りルート、南廻りルートとしておこう。
前者は飯盛山を経て山城の宇治田原(京都府宇治田原町)、近江の信楽(滋賀県甲賀市)から伊賀へ入り、柘つ植げ(三重県伊賀市)を経て鈴鹿山脈にかかる加太越えで伊勢に至るコース。
後者のコースだとまず、堺から東へ向かい、河内との国境にある竹内峠を越えて大和に入る。そこから国中(奈良盆地)を横断する形で東へ進み、八や木ぎ(奈良県橿原市)から南下して明日香村の芋い もケが峠とうげを通って吉野方面へ。そして大和上市(同吉野町)へ出て、そこからまた東へ進み、高見峠を越えて北上し、伊賀へ至る大和越えのルートだ。
この二ルートのうち、通説は『石川忠総留書』(以下『留書』)によって北廻りを採用している。
というのも、『留書』の筆者忠総は、大久保忠隣 (のちの小田原城主)の子息で石川康親の養子となった武将。家康の重臣石川数正や忠総の実父忠隣らが家康の伊賀越えに随行し、『留書』には随行した家臣の名やルート、堺からの里程(距離)まで記され、一部、他の史料と差異があるものの、北廻りルートがこの『留書』の記述の信頼性によって確定し、通説となったのだ。
一方、『当代記』や『大和記』などの史料に南廻りルートが記されていながら、以上の理由で北廻りが通説化していった。
ところが、上島秀友氏の指摘によって看過できない問題のあることがわかった(『伊賀越えの真相-家康は大和を越えた』参照)。というのも、天正一〇年六月付の「東照宮御判物」の存在が明らかになったからだ。
東照宮(家康)の朱印や花押などが捺お された文書をそう呼び、現存する文書は「記録御用所本」(江戸幕府が諸家から提出させた古文書)の写しで
「古文書の忠実な書写」とされているもの。信頼性は高く、その御判物で家康は、〈このたび大和越えの節、落度なきようめされ給わり、かたじけなく存じ候〉と、のちに家康に仕えて石見銀山(島根県大田市)の奉行にまで昇進する竹村道清らに謝意を送っているのだ。
その道清の祖父が竹内峠の麓に住む地元の土豪だった関係で、家康が大和越えの起点である竹内峠に詳しい道清に声をかけ、彼がその道案内をしたと考えられるのだ。
ならば、通説が誤りで南廻りルートが史実なのだろうか。