■自害覚悟から一転して生き残りを決意した!?
しかし、『和田文書』に含まれる「東照宮御判物」には逆に、家康が北廻りルートで伊賀入りしたことを示す史料が残されているのだ。和田定教(室町幕府奉公衆和田惟政の実弟)に宛て、その忠節に報いる旨を記載した判物の日付は天正一二年六月一二日。やはり家康が無事三河に帰りついてから発給したと考えられる。
家康の伊賀越え当時、定教は郷里の甲賀(滋賀県)に帰っていたから、彼が家康一行の甲賀通過の案内役をつとめた証拠となっている。
このように家康が北廻りと南廻りのどちらも通ったことを示す一次史料がそれぞれ存在しているのだ。
一方、先の『天正日記』には、「信長御生害を知りて、計略をいいて上洛なり」と追記がしてある。この追記通りなら、家康は堺で変事の情報を知り、なんらかの計略を用いるために上洛したということになる。
通説は、上洛途上の家康が飯盛山付近で茶屋四郎次郎から変事を聞かされる展開になるが、このように家康が堺で変事を知った可能性もある。
この追記の内容が正しいとしたら、家康はどんな計略を用いたというのか。
あくまで筆者の推論だが、このとき家康が替え玉を立てるという計略を立てたとしたらどうだろう。
替え玉に堺から東へ大和越えの南廻りルートで伊賀方面へ向かわせ、自らは上洛すると見せかけるためにいったん堺から北へ進み、河内の飯盛山から山城の宇治田原、近江の信楽を経て伊賀で替え玉の一行と合流する。
以上のようにホンモノと替え玉が二手に分かれていたなら、それぞれ北廻りと南廻り上に信頼できる家康の判物が残るという矛盾は解消する。
推論通り、家康が替え玉を立ててまで生き残ろうとしていたのだとしたら、一時は自害を覚悟した彼の変わり身の早さに驚かされる。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。