日本最古の歴史書「古事記」編纂者、稗田阿礼「架空の人物か女性か」!?の画像
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 百科事典の『古事記』の項を読むと、「日本最古の歴史書。序文および上・中・下の三巻からなり、神代から推古天皇までの古事を記録したためにそう呼ばれる」などと出る。

 その序文には成立に至る過程が詳細に記され、そこに稗田阿礼という人物が登場する。

 高校の教科書に「天武天皇が稗田阿礼に『帝紀』『旧辞』を誦み習わせ(この一文の意味は後述)、のちに太安万侶が筆録した」と記載されている人物だ。

 もう少し詳しく言うと、『古事記』の編纂は天武の時代に実現できず、ほぼ三〇年後の元明天皇(天武の皇子草壁の后)の治世に当たる和銅五年(812)になって、阿礼の誦んだものを安万侶が改めて筆録し、『古事記』が完成したという。

 こうして阿礼は、日本最古の歴史書編纂に関係した人物として記憶される一方、架空の人物説や女性説が提起され、日本史を代表する謎めいた人物の一人ともされる。その実像に迫ってみよう。

 架空の人物なのか?『古事記』の序文は筆録者の安万侶自身が書き、そこに「時に舎人(下級官人)がいた。姓は稗田、名は阿礼。年これ二八。人となり聡明にして、目にわたれば口に誦み、耳にふるれば心にしるす」とある。

 そこで天武天皇がこの記憶力抜群と讃えられる阿礼に『帝紀』『旧辞』を誦み習わせたという一文に続くのだが、序文や関係する史料(後述)を除き、他の史料(同時代に編纂された『日本書紀』他)で、この人物の存在を確認できず、実在しなかったという説の根拠となった。

 続いて、序文に「姓は稗田、名は阿礼」として、氏名(氏族名)の記載のない不自然さがこの説を後押しした。大和国添上郡に稗田という地名(奈良県大和郡山市)があり、地名を氏名とする例が多いため、いったん稗田は添上郡出身の氏族の名称だと考えられるようになった。

 ところが、稗田という氏そのものが古代の氏族名鑑ともいうべき『新撰姓氏録』に記載されていなかったのだ。

 しかも、稗田が氏名だとすると、今度は姓がないことになる。姓は「せい」ではなく、「かばね」と訓み、当時、氏族の家柄を示すものとして、このような紹介文には必ずつけられた。事実、序文を書いた安万呂も末尾に「太」という氏名の次に「朝臣」という姓を記している。姓を持たない氏族というのは当時、ほとんど例がなかった。こうして架空人物説が力を得た。

 ところが、阿礼の時代からかなり時代が下るものの、延喜二〇年(920)の史料で「稗田福貞子」「稗田海子」という人物が確認できる。

 また、阿礼が架空の人物だとしたら、安万呂は元明天皇に偽りを語ったことになってしまう。なぜなら、序文は『古事記』を献上した元明天皇に対して書いたものだとされているからだ。実在の人物だからこそ安万呂は、阿礼が誦んだものを筆録したと天皇に報告できたのだ。

 確かに『新撰姓氏録』などに稗田の氏名が記載されないのは気になるが、序文が偽書(ホンモノに見せて書いた書)でないことを原則に考えると、安万呂が無礼を覚悟でわざわざ天皇に架空の人物の名を示す理由がなく、阿礼は実在したといえる。

 男性か女性か?

 阿礼が女性だと最初に論じたのは江戸時代の著名な国学者平田篤胤。彼は著書の『古史微開題記』に「(阿礼は)女舎人」だと書いた。話のネタ元は『古事記』序文の関連史料である『弘仁私記』。

 そこに、阿礼は天宇受売命という女神の末裔だと書かれ、その末裔の一族が歴代、猿女として朝廷に仕えたという伝承による。猿女というのは朝廷の行事で神楽舞などを演じた女官。ちなみに猿は「戯る」に通じ、滑稽な技を演じる者という意味がある。延喜二〇年の史料(前出)に登場した稗田一族の「福貞子」らも猿女として朝廷に仕えたことが分かっている。

 しかし、稗田一族が猿女を輩出する家柄だとしても、一族の中にはむろん、男性がいたはずだ。

 そこで阿礼が舎人と記載されているところがポイントとなる。舎人は下級役人ながら、天皇の護衛に当たるために武芸が重んじられ、「女舎人」がいたという記録は筆者の知る限り確認できない。やはり阿礼は男性とすべきだろう。

 阿礼はすでに死んでいた?

 まず『帝紀』は歴代天皇の即位から崩御までをまとめた史料群で『旧辞』は各地に伝来した神話や伝説を集めた史料群とされる。ただ、いずれも口伝で語り継がれてきたという。

 口伝だから異説がいくつも生じ、天武天皇の時代、かなり混乱していた。前述の「誦み習う」という言葉の意味については諸説あるものの、以上を踏まえ、筆者は次のようなことだと考えている。

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