■彼の暗誦文がなければ決して完成しなかった
まず天武が全国から差し出させた口伝史料の内容を阿礼に聞き取らせ、天武がそれを取捨選択し、改めて阿礼がその内容を暗誦した――以上の仮説が正しいとしても、もう一つ、大きな謎が残っている。
天武が『帝紀』『旧辞』の誦み習いを命じた際に阿礼は二八歳だと序文にあり、それが仮に当時の法律である飛鳥浄御原令を作り始めた天武天皇一〇年(681)頃だとすると、安万呂が筆録して『古事記』が完成した和銅五年(712)に、阿礼は六〇歳前後という当時としては、かなりの高齢に達している。
一方、序文で阿礼が紹介されるくだりの原文は〈時舎人有〉で始まるが、これを現代文に直すと前述した通りで、「時に」という書き出しがある以上、言葉尻はどうしても「時に舎人ありき(時に舎人がいた)」と過去形にならざるを得ない。つまり、安万呂が筆録した際、阿礼は故人だった疑いが生じるのだ。
そこで、こうは考えられないだろうか。天武天皇に命じられ、阿礼は後に『古事記』となる口伝の内容の暗誦作業を終え、亡くなる前にその内容を誰かに書き取らせていた。
一方、正式な編纂作業は三〇年ほど延び、安万呂は書き取られた阿礼の暗誦文を見て、添削を加えながら成文化したにすぎない――。
だとしたら、「稗田阿礼は『古事記』完成当時すでに故人だった」ものの、彼の暗誦文がなければ、『古事記』が決して完成しなかったほどの重要な人物だったと言えるのではなかろうか。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。