■幕府は事情を知らずに和親条約を締結した!?

 ペリーは、そんなことは一切知らない幕府に国書を渡すや、一年後に再来航して返事を聞くと述べ、六月一二日、浦賀沖を後にした。来航して、わずか九日後のことだ。

 こうして彼は、幕府に前述のアキレス腱を勘づかれる前に、さっさと国書を渡し、引き揚げようとしたといえそうだが、実はもう一つ、大きな問題を抱えていた。

「一ヶ月以上沿岸に滞留できるだけの十分な食糧と水を持っていなかった」のだ。

 幕府がなおもペリーを焦らし、沿岸で無為に時を過ごさせれば、彼は幕府に国書を渡すことなく帰路に就かねばならなかったのだ。

 その後、ペリーは約束より半年早く翌嘉永七年一月一六日、航海が難しい冬にわざわざ香港を出港。

 蒸気船と帆船七隻(後に二隻が追加)で神奈川沖に現れ、前述した柴村沖に投錨した。

 これは、彼が一二代将軍徳川家慶の死を知り、その幕府の混乱につけ入るのが狙いだったといわれるが、それだけではない。

 その頃、ペリーは中国沿岸部の香港、マカオ、上海を行き来していたが、そこでロシアのプチャーチンがアメリカと共同で日本に開国を求めようとする動きを知り、ロシアを出し抜くために予定を早めて再来日したのだ。

 このときも彼には中国問題を優先する政府内の一派との対立から条約締結のための全権を与えられておらず、それがアキレス腱になっていた。

 そこで日本への外交文書の冒頭、本国の政府には無断で「Special Ambassador to Japan」( 特命全権大使)の一文をつけた。

 こうして幕府はペリーがいくつものアキレス腱を抱えていたことを知らず、最後には和親条約を締結する。

 しかし、その後の日本の近代化の流れを見ると、彼がアキレス腱を隠しつつ、恫喝に近い姿勢で日本を開国に踏み切らせたことが幸いしたといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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