NHK大河ドラマでは山寺宏一が熱演!天皇を悪霊となって祟り殺した!?“天台宗”慈円の汚名は「濡れ衣」の画像
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 比叡山延暦寺のトップ(天台座主)にして、著名な歴史書『愚管抄』の著者である慈円――昨年のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』では、俳優で声優の山寺宏一が演じ、後鳥羽上皇の側近として登場した。

 生涯、天台座主に四回なったことでも知られ、政変に巻き込まれた一回目の辞職を除くと、辞めるたびに後鳥羽上皇に乞われてはまた座主の地位に戻るといった繰り返し。

 当時、そうやって四回も時の権力者に乞われて天台座主になるのは異例中の異例だったため、慈円は時代を代表する名僧の一人に数えられる。

 ところが、その慈円が鎌倉時代初めの嘉禄元年(1225)九月に七一歳で没したのち、とんでもない嫌疑を掛けられた。その死から一七年後の仁治三年(1242)正月九日、四条天皇が崩御した際、「慈円和尚に祟られたのが原因」(『門葉記』)という風評が流れたのだ。

 つまり、慈円が悪霊となって四条天皇を祟り殺したというのである。

 もちろん、事実ではないが、名僧といわれる人物に、そんな風評が流れたことそのものが異常。いったいなぜなのか。慈円の生涯を辿りつつ、その謎を解き明かしていこう。

 慈円は久寿二年(1155)四月に生まれた。父は関白藤原忠た だ通み ち。彼には一三人の兄弟姉妹(慈円は六男か)がいて、藤原基実、基房、兼実の兄三人が摂政関白になっている。

 このうち、基実は近衛大路に邸があり、九条に邸があった兼実とともに、それぞれ近衛殿、九条殿と呼ばれた。

 こうして誕生した近衛家と九条家はその後、摂政と関白を独占する

「五摂家」の嫡流を争うライバル関係となる。慈円は同母兄である兼実の支援を受け僧として出世してゆくが、そのため彼は生涯を通じ、九条家の安泰を願い、その発展に尽力するのである。

 ところで、慈円は二歳で母を、一〇歳で父を亡くし、一三歳のときに覚かく快かい法親王(鳥羽天皇の第七皇子)を師として出家した。彼が宗教界に身を投じたのは、幼くして父母を失くしたことに関係するように思えるが当時、摂関家の子弟が僧となるのは決められたコースだった。

 慈円もまた、同母兄の兼実が九条家の家長として政界入りした以上、出家の道を選ぶしかなかったといえる。彼が飛び込んだ宗教界は当時、世俗にまみれ、逆に言うと、それだけに慈円は「関白忠通の子」、あるいは「九条兼実の弟」として注目され、一六歳の若さで位の高い僧に与えられる阿闍梨の称号を得て、建久三年(1192)、わずか三八歳で天台座主の地位に上った。

 ただ、慈円は実家の七光りだけで座主の地位を射止めたわけではなかった。二〇代の頃には比叡山の無動寺(延暦寺の塔頭の一つ)で「千日入堂」を果たしている。無動寺に千日間詣でて祈り続けるという荒行だ。この修行を終えた慈円が山を下り、世俗にまみれた延暦寺を離れて本格的に修行したい旨を、兄の兼実に伝えているから、「千日入堂」が僧としての成長を促したのは間違いない。

 しかし、その願いは受け入れられず、慈円が座主に就いた年に後白河法皇が崩御。当時の政界は、鎌倉で幕府を開いた源頼朝と京の朝廷の後鳥羽天皇や関白九条兼実を中心に運営されており、兄・兼実と頼朝は親しい関係にあったから、宗教界の事実上のトップである慈円を含め、ある意味、九条家が国を動かしていた時代でもあった。

 やがて後鳥羽天皇は譲位して上皇(院)となり、慈円はその院の御所にも出入りし始める。著書の『愚管抄』に「和歌が上手だというので摂政(兼実の子の九条良経)と同じようにもてなされた」と記し、上皇から「歌の会には必ず参会せよ」と命じられていたため、たえず御所に伺候していたという。

 さらに彼は上皇直属の護持僧(貴人の心身護持を祈祷する僧のこと)としての役目も担った。

 しかし、上皇の心身護持の願いはやがて、武家(鎌倉幕府)調伏へと変わったため、護持僧として慈円は上皇と距離を置き始める。

 建保二年(1214)、六〇歳になっていた彼が四度目の座主を辞してしばらく経った頃より、上皇のために祈祷する回数が急減したのである。

 というのも、慈円は幕府と朝廷が一体化して政治に当たる公武一和を理想と考え、その衝突を恐れていたからだ。特に承久元年(1219)には兼実の曾孫である九条頼経が次の将軍候補として鎌倉に下り、良経(前出)の娘が産んだ皇子(後の仲恭天皇)が皇太子になっていた。

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