■天皇の「自爆転倒死」が風評被害を生み出した

 兄の兼実亡きあと、九条家の繁栄を祈り、かつ、政治信念である公武一和を願っていた慈円にとって、頼経の鎌倉入りが実現し、一族の中から次の天皇が約束されているこのときが得意の絶頂期であり、公武一和こそが九条家繁栄を保証する制度だと考えていたのだろう。

 ちなみに、『愚管抄』もこの年に書き終えたとされる。この歴史書は今でこそ、この時代を知るための有力な史料とされているが、江戸時代の半ばまでは世に埋もれた存在で、それまでは九条家の中でだけ読まれていた。『愚管抄』には哲学書としての側面があり、九条家に関係する若い者たちに、いわば帝王学を授けるために記したともいわれる。その九条家の人々の中で、特に慈円がこの書を読んでもらいたかったのが仲恭天皇だったとみられる。

 ところが、二年後の承久三年(1221)に挙兵した上皇軍は幕府軍の前に敗れて後鳥羽上皇は隠岐に流された(承久の乱)。このとき即位したばかりの仲恭天皇も幕府によって廃され、同時に九条道家(良経の子で頼経の父)も摂政を辞し、その地位はライバルの近衛家に奪われた。

 記事冒頭で述べた四条天皇は、廃された仲恭に代わり、幕府に擁立された後堀河天皇の皇子だ。四条天皇は一二歳で崩御するが、身近な者らを驚かせようといたずらで御所の廊下に滑石の粉末(スベリ剤)を撒き、自らが誤って転倒したのが原因だと伝わる(『五代帝王物語』)。

 亡くなった経緯が特殊なだけに、風評が飛び交いやすい。当時、慈円が九条家の栄華を奪った相手――近衛家や後堀河天皇を恨んでいたと人々に記憶されていたのだろう。

 それが慈円にとんでもない濡れ衣を着せる結果になったと言えよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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