平田篤胤は幕末の尊王思想に重大な影響を与えた国学者だ。
国学とは『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの日本の古典を研究対象とし、中国などの外来文化の影響を廃し、日本固有の思想や文化を究明しようとした学問のこと。本居宣長がその大成者として知られている。
篤胤は二八歳のときに彼の著書『古事記伝』を初めて読んで感動し、師事しようとしたが、すでに二年前に他界していたため、亡くなった宣長と夢の中で対面し、弟子入りを許されたと公言。そのことからしてユニークだが、篤胤は今でいう霊界(幽冥界)の案内人でもあった。
実際に彼は霊界と現世を往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという少年の話を信じ、そこから江戸時代の霊界研究書ともいえる『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などの著作を残した。国学者の篤胤が、なぜ霊界の案内人になったのだろうか。
篤胤は安永五年(1776)に出羽国久保田(現秋田市)で秋田藩士大和田清兵衛の四男として生まれた。しかし、幼少期は決して幸せではなかった。幼少の頃より父母に育てられず、いろんな家へ養子に入ったり、実家に戻ったりの繰り返し。
実家に戻ったときにも他の兄弟から飯炊きや掃除、草むしりなどの家事を押しつけられたという。
そして二〇歳になる正月八日、五〇〇文の銭とともに藩を飛び出し、江戸へ出たと、のちに養子となる平田鉄胤に述懐している。
出奔までに苦労しながらも儒学や医術を修めていた彼は、江戸へ出て三年後、二三歳で、はや一人前に「大壑(広い海という意味)」と号しているから、学問で身を立てようとしたのだろう。
当時、彼が江戸でどんな苦学生活を送っていたかは不明だが、二五歳のとき、江戸勤めの備中松山藩士平田藤兵衛の養子となって名を篤胤と改めて以降、生活もまずまず安定し、彼の学問は一気に進んだようだ。
その後、篤胤が宣長の著書に感銘を受けて師事しようとしたころ、儒学者の太宰春台の思想に反論した『呵妄書』(初めての著書)を完成させた。儒学を学んでいた篤胤が、その儒学を批判したのだ。
さらに二九歳で私塾の「真菅乃屋(のちの気吹舎)」を開き、この辺りから本格的に思想家としての人生を歩み出す。
ただし、宣長の国学が実証主義(主観的な推論を排除する学問の姿勢)に基づいているのに対し、篤胤の国学は事実を恣意的に解釈しているとして、宣長の弟子の一人から「さまざまな書物を自分勝手に利用して自由に理屈をつけるのが上手な人」(吉田麻子著『平田篤胤』から引用)と糾弾されたという。
その篤胤は尊王を主張し、仁孝天皇に著作を献じる一方、江戸幕府は彼の思想を危険なものと断じ、天保一一年(1840)暮れ、著述の禁止と江戸退去を命じた。
篤胤は当時、秋田藩に帰藩しており、翌年、国元に蟄居することになったが、それでも門人は増え続け、天保一四年(1843)、秋田で死去する(享年六八)。
それでは死後、篤胤はどうなったのだろう。彼が三七歳のときに刊行した霊界案内書といえる『霊能真柱』に、こう記している。
自分が亡くなったあと、先立たれた妻を伴って本居宣長のところへ飛んで行き、春には山桜、夏は青山、秋は紅葉と月、冬は雪を三人で愛でて楽しむことだろうと。
つまり、この江戸時代の霊界案内人は、霊界でも現世と同じように生活できる――すなわち、霊界は現世から見えないだけで隣り合わせの身近な存在だと認識しているのだ。
篤胤がこういう考えに至った理由の一つに、早くに亡くなった妻織瀬の存在がある。彼が平田家の養子になって生活が安定した翌年、二六歳のときに沼津藩士石橋宇右衛門の娘と結婚。彼がいかに亡くなった妻を愛していたかは、後添いの女性にわざわざ織瀬と名を改めさせたことでもわかる。
篤胤が『霊能真柱』の草稿を完成させた約半年前に、その最初の妻を亡くしており、その最愛の女性にもう一度会いたいという切なる願望が、霊界は現世と隣り合うように存在し、現世で関係した人たちと楽しく暮らせるというイメージに繋がったともいえる。