「日本三悪人」道鏡の野望を阻止!天皇に忠義を尽くした和気清麻呂の画像
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 旧江戸城(皇居)平川門近くの堀端に立つ和気清麻呂像が出来たのは戦前の昭和一五年(1940)。

 その年に発刊された国定教科書(尋常小学校用)には、こんな話が掲載されている。奈良時代の話だ。

『称徳天皇(女帝)の御代に勢力をえた道鏡(僧)にへつらう者が宇佐八幡宮(大分県)のお告げだと偽り、「道鏡を天皇の位につかせれば天下は穏やかになる」と天皇に申し上げた。天皇はこれを聞き、清麻呂を宇佐にお遣わしになって確かめることになった。

 清麻呂が都を発つとき、道鏡は「自分のために計らえば高い地位を与えよう」と言った。しかし、清麻呂は忠義の心が深く、出世のために志を動かすような人ではなかった。

 宇佐から帰った清麻呂は天皇の御前で「どんなことがあろうとも、臣(道鏡)たる者を君(天皇)とすべきでない。無道の者を早く除きたまえ」という宇佐八幡の教え(神託)を申し上げた。

 道鏡は大いに怒って清麻呂を大隅(鹿児島県)へ流し、その途中で殺させようと図ったが、激しい雷雨が起きて清麻呂は危ういところを免れた。

 まもなく光仁天皇の御代になって道鏡は下野(栃木県)へ追われ、清麻呂は召し返され、桓武天皇の御代まで忠義を尽くした』

 寵愛を受けた女帝(称徳天皇)の死によって道鏡はあえなく失脚したが、彼の野望を砕いた気骨の人として、清麻呂は楠木正成とともに「臣民(国民)の手本」とされ、京都御所の蛤御門前にある護王神社に祀られ、紙幣にもなった。

 以上の「宇佐八幡神託事件」を中心に、この国民の手本とされる人物の実像に迫ってみよう。

 彼は、備前国(岡山県)藤野郡(のち和気郡)の豪族の出身。天平五年(733)の生まれとされている。

 姉に和気広虫(法均尼)がいて、彼女が官女として出仕し、称徳天皇に気に入られたことが清麻呂の出世のスタ―トとなった。

 天平神護二年(766)、三四歳で従五位下の官位を与えられているから、地方豪族出身としては早い出世といえる。姉の広虫の引き立てがあったのだ。

 そして、三年後の天平景雲三年(769)に「宇佐八幡神託事件」が起きる。国定教科書では道鏡を悪人として扱い、事件の主犯格だと断定しているが、最近では、この事件の首謀者は称徳天皇だとされるようになってきた。

 国定教科書に記載される話は、ほぼ『続しょく日に本ほん紀ぎ 』という一級史料を踏襲している。大きく違う点は国定教科書に書かれていない「道鏡にへつらう者」の名が記載されていることだ。大宰府(福岡県)で神祇を司る大かんづかさ神という役職にある者が「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならん」と神託をでっち上げたとするのだ。

 しかし、話のネタ元といえる『続日本紀』は『日本書紀』の続編として、平安遷都を実施した桓武天皇の時代に完成した歴史書。事件の首謀者とされる称徳天皇は、壬申の乱(古代の内乱)に勝利して事実上の「天武朝」を開いた天武天皇の流れを汲んでいたが、皇太子を定めず崩御したため、死後、群臣会議によって白壁王が光仁天皇として即位した。

 その光仁天皇は天智天皇(天武天皇の兄)の孫に当たり、称徳天皇とは皇統を別にする。

 そのため、光仁天皇の皇子(桓武天皇)の時代に編纂された『続日本紀』が、「天武朝」から「天智朝」への皇位継承を正当化するため、あえて道鏡を悪役の地位へ貶めた可能性は否定できない。

 そもそも道鏡に本当に天皇になろうとした企みがあったなら、下野への左遷で許されるはずがない。

 しかも、称徳天皇には神託を偽ってまで道鏡に譲位する動機がある。というのも、この時代、女帝は一代限りという原則のため、いわば不婚が強制されていた。

 したがって、彼女には一代限りという女帝の宿命への反発があったのではなかろうか。そして道鏡の皇后として実権を握り、いわば「称徳朝」を開こうとしたとも考えられる。

 以上を背景に、宇佐八幡神託事件における清麻呂の役割を再検討してみたい。

 清麻呂は姉の広虫の引き立てで出世し、彼女は称徳天皇の信任を得ていた。まず、広虫も清麻呂も事件の首謀者とみられる称徳天皇グループの一員だったこと。したがって天皇が清麻呂を宇佐八幡へ遣わしたのも、彼なら満足する神託を持って帰ってくるに違いないと期待したからだ。

 また、鎌倉時代の歴史書である『水鏡』には「道鏡を皇位につけよ」という偽りの神託を告げたのは広虫だとしている。

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