■大和川付け替え工事で水害を除こうと計画!
一方の清麻呂は、姉が受けたのとは逆の「道鏡を除け」という神託を得たのだが、すぐには信じることができないという態度を示している。
すると八幡神が姿を現し、清麻呂もようやく「道鏡を除け」という神託を信じるのだ。いわば称徳天皇側であった清麻呂は、この事件に消極的に関与しているにすぎない。
しかし、江戸時代になり、水戸黄門こと二代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』は、清麻呂が宇佐八幡事件において積極的に関与したと再評価し、信念を貫いて天皇家と国家を守った忠臣と位置付けたのだ。こうして今日の清麻呂の評価が定まった。
ただし、『水鏡』もだいぶ時代が下ってからの歴史書であり、その内容すべてを信じることはできない。
また、それが消極的であれ、積極的であれ、清麻呂が正しい神託を告げ、偽の神託を葬ったのは事実。
しかも、前述した通り彼は光仁天皇の皇子である桓武天皇の時代に重用され、優れた手腕を発揮する。
桓武朝で彼は摂津(大阪府)職に任じられ、のちに民部大輔も兼ね、大和川の付け替え工事を行って水害を除こうと図った。これには成功しなかったものの、当時としてはかなり思い切った政策だったといえる。
また、彼は葛野郡での新都(のちの平安京)造営を上奏。清麻呂は延暦一五年(796)に、その造宮大夫に任じられた。二年後に引退したい旨を申し出たが許されず、翌延暦一八年(799)年、六七歳でこの世を去った。
彼が国民の手本であったかどうかはともかく、優秀な官僚だったのは間違いない。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。