応仁の乱(1467~77年)が戦国乱世の時代をもたらしたのは事実だが、この大乱に参陣した守護大名の領国を一覧すると、不思議な点に気づく。まずは東軍と西軍別に守護大名の主な領国をまとめてみた。

 東軍方=摂津(大阪府)、和泉(同)、河内(同)、丹波(京都府)、丹後(同)、土佐( 高知県)、讃岐(香川県)、阿波(徳島県)、三河(愛知県)、備前(岡山県)、備中(同)、美作(同)、播磨(兵庫県)、淡路(同)、越前( 福井県)、若狭(同)、紀伊(和歌山県)、越中(富山県)、出雲(島根県)、飛騨(岐阜県)、近江(滋賀県)、加賀(石川県)、安芸(広島県)。

 西軍方=但馬(兵庫県)、備後(広島県)、伯耆(鳥取県)、因幡(同)、石見(島根県)、伊勢(三重県)、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、大和(奈良県)、能登(石川県)。

 家督争いで領国が重複する場合はすべて東軍方とした。

 以上、領国名を地図に照らし合わせてみると、関東地方がすっぽり抜け落ちているのが分かる。

 応仁の乱は京の市街戦から全国に飛び火したとよくいわれるが、日本全国津々浦々に戦乱を撒き散らしたわけではなかったのだ。

 それでは関東だけが平和だったのかというと、もちろん違う。応仁の乱の四半世紀前に関東は関東で、戦国時代の幕開けを告げる別の大乱が勃発していたのだ。

 それが永享の乱(1438~39年)。意外に知られていない大乱の原因と、その行方を追ってみよう。

 話は初代将軍の足利尊氏の時代まで、さかのぼる。のちに室町幕府と呼ばれる政権は京都で誕生したが、尊氏は武士の都である鎌倉と関東を重視し、貞和五年(1349)に二代将軍となった義詮に代わり、その弟の基氏に関東(関東八ヶ国と伊豆、甲斐)の支配を任せた。これを関東府、もしくは鎌倉府といい、この行政機関のトップを鎌倉公方と呼ぶ。

 つまり、足利氏の幕府は創業当時より京の公方(将軍)が関東を除く地域、鎌倉の公方が関東を支配するという二重構造の矛盾をはらんでいたのだ。

 初代基氏から孫の満兼の時代までは大きな問題が生じなかったが、曾孫の足利持氏(四代鎌倉公方)の時代ともなると、鎌倉府誕生の意義よりも京の将軍家への対抗意識がまさる状況が生まれた。

 というのも鎌倉公方は配下の武士を守護に任じる権限を持っていたが、京の将軍家が「推挙」という形で、その人事に口出ししたからだ。

「将軍家(幕府)VS鎌倉公方」という構図がいつ生じたかは定かでないが、応永二四年(1417)に京の幕府が宇都宮持綱を上総(千葉県)の守護に推挙し、持氏がこれを拒んだ辺りから顕著になり始める。

 当然、幕府は持綱に持氏の指示に従わないよう命じて、関係はさらにこじれ、その後も両者は守護人事を巡り、ことごとく対立する。

 また、ほぼ同時に持氏は幕府に親密な態度を示していた関東の武士らを攻め、関東から幕府色を取り除こうと図った。

 すると今度は幕府が、攻められた彼らを「京都扶持衆」として組織化。さらに持氏が鎌倉府にとって獅子身中の虫というべき彼らを攻め滅ぼすという悪循環に陥った。

 こうして両者が一触即発の状況となり、一時、義持が武蔵府中(東京都)まで出陣して幕府と対決する姿勢を見せたが、このときは自重した。

 そうして永享一〇年(1438)、いよいよ大乱が勃発。この争乱は幕府の代弁者である鎌倉府のナンバー2(関東管領)上杉憲実との対立という形で始まった。

 まず、この年の六月、持氏は嫡男賢王丸を将軍義教(六代)の偏へ ん諱き を受けずに元服させようとした。将軍から諱いみなの一字を受けることは名誉な話で、逆にいうと偏諱を受けないのは将軍を認めていないというのと、ほぼ同義といえた。

 事実、持氏は、五代将軍義持が跡継ぎを残さず他界し、くじ引きで決められた義教を将軍と認めていなかったのだろう。

 しかし、関東管領の憲実がこれに反発し、賢王丸の元服式への参列を拒んだ。こうして八月、持氏が憲実を討つという噂が流れ、憲実は鎌倉から本拠地である上野平井城(群馬県藤岡市)へ難を逃れるのだが、そのとき、『永享記』などの軍記物は春日大明神のご霊光が現れたと記している。軍記物は憲実側に正義があると解釈していることが分かる。

 持氏は上野へ下国した憲実を攻める決意を固め、再び武蔵府中に入り、軍勢を上野へ派遣した。

 しかし、幕府が憲実を救援するための軍勢を向けると、鎌倉公方軍は箱根、足柄(神奈川県)から攻め寄せる軍勢に敗北。しかも、持氏は味方の三浦時高の裏切りに遭い、留守にしていた鎌倉を奪われた。その奪還を図ろうとするものの、一一月に降伏し、鎌倉で囚われの身となって、翌年二月に自害して果てる。

 こう見てくると、史料で「大乱」と呼ばれるにはあまりにあっけない幕切れに思える。そこで乱が勃発する二年前の永享八年に戻って再考してみよう。

 その年、持氏は幕府方の信濃(長野県)の守護小笠原政康を討とうとし、憲実がそれをいさめる事件があった。

 つまり、憲実は幕府との融和を図ろうとして持氏と対立し、翌永享九年にも、持氏が憲実を討つという噂が流れ、このとき憲実は藤沢(神奈川県)へ退いている。

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